コリント人への手紙 第一9章8節~10節

「愛の律法」

 本日の聖書箇所では、福音宣教の働きをする者が正当な報酬を受けることは当たり前であるということが語られています。しかし、この事があえて語られていることからも分かるように、福音宣教の働きをする者が報酬を受け取ることを、当たり前ではないと考える人々が当時のコリント教会の中にいたようです。ですが、働くことで報酬を受け取るということは聖書の時代であっても当たり前のことです。現代でもアルバイト、サラリーマン、公務員、自営業など、どのような職業でもタダで働くということはないはずです。働く者は皆、働きに相応しい報酬を受け取っています。このように働く者が報酬を受け取るということは当然のことなのです。私たちは皆がパウロのように福音宣教の働きに専念する者たちではありませんが、今日はここにいる一人一人が報酬を受け取る者の立場に立って考えながら共に神のみことばに聞きたいと思います。
 それでは本日の聖書箇所である8節~10節に入る前に9章前半の1節~7節を簡単に確認しましょう。9章は一見すると8章とのつながりがないように思えますが、9章には、8章で語られた弱い良心を持つ人々へのパウロの具体的な配慮が記されています。つまり9章には使徒であるパウロ自身が兄弟たちをつまずかせないために、自分の権利を使わないということのお手本が示されているのです。また、9章の15節を見ると、どうやらパウロはコリント教会からは働きの報酬を受け取っていなかったようです。しかし、コリント教会のある人々は「パウロは自分の使徒としての権威に自信がないから働きの報酬を受け取らないのだ」と考え、パウロが本当に使徒であるのかを疑っていたようです。けれども、9章全体を見ますとパウロが働きの報酬を受け取らなかったのは、福音のためであったことが分かります。パウロはイエス様の福音によって一人でも多くの人が救われるように自分の使徒としての権利を使わなかったのです。また、1節~7節では、その様なパウロの使徒としての権威を疑う人々に反論するためにパウロは自分の使徒としての権威の確かな証拠として復活の主イエスと出会ったこと、パウロが建て上げて来た働きの確かな証拠であるコリント教会の存在を挙げてきました。続けて、パウロも当然持っている使徒の権利として教会の負担によって、食べたり飲んだりする権利、他の使徒たちのように自分の奥さんを連れて宣教旅行に行く権利、生活費を稼ぐための働きをやめて福音宣教だけに専念する権利を語ってきました。
 さらに、冒頭触れましたように、7節ではこの世の働く者たちを例に挙げて、働く者が報酬を受けるということは、当時の社会でも当たり前のことであるということを語ってきたのです。そして、本日の聖書箇所である8節~10節で、パウロは働く者が報酬を受けることの確かな根拠について語り出します。
 8節「私がこのようなことを言うのは、人間の考えによるのでしょうか。律法も同じことを言ってはいないでしょうか」まずパウロが言う「このようなこと」とは何でしょうか?それは、先ほど確認いたしました7節にあるこの世の人びとにとって働くことで報酬を得ることが常識であるように、福音宣教の働きをする者も働くことで報酬を得るのは当たり前であるという考えのことです。
 また、8節の前半「私がこのようなことを言うのは、人間の考えによるのでしょうか」という文章は新約聖書が最初に記された、コイネーギリシャ語という言語では否定疑問文という方法によって記されています。つまり「私がこのようなことを言うのは、人間の考えによるのでしょうか」という疑問に対して「いいえ、人間の考えによるのではありません」という応答をパウロは期待しているのです。ですから、パウロはここで7節の考えは人間から出たものではないこと、パウロが勝手に自分の権利の主張のために言っているのではないということを強調しているのです。では、人間から出たのでなければ、一体どこからこの考えは出てきたのでしょうか?それは、8節後半「律法も同じことを言ってはいないでしょうか」とあるように、この考えは律法から出ているとパウロは言います。
 そして、9節では働く者が報酬を受けるのは当然であるという考えの根拠をパウロは律法から示します。9節前半「モーセの律法には『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と書いてあります。」この「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」とは「申命記25章4節」に出て来る律法のことです。脱穀とは、刈り取って収穫した麦の籾殻を外す作業のことです。口籠とは、動物の口の動きを封じる器具のことです。ですから、ここでは文字通り理解するならば、牛が脱穀という仕事をしている時に牛の口に口籠を付けてその口の動きを封じて、脱穀されて下に落ちた麦を食べれないようにしてはならない。牛にも働きながら食事をして養われる権利があるのだということが教えられていると考えられます。つまり、この律法は牛などの家畜に対する愛を教えているのです。しかし、パウロは言います。9節後半「はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか」どうやら、パウロは神がこの律法を人間に授けたのは、牛のためではないと考えているようです。では、一体誰のためなのでしょうか?
 それは10節前半「私たちのために言っておられるのではありませんか」とあるようにパウロに私たちと呼ばれる人々のためです。この「私たち」とは、9章の文脈から考えると、パウロとバルナバのことでしょう。また、この二人だけでなくもう少し広く考えてみると、福音宣教の働きをする者たち全体のことを指しているとも考えられます。ですから、パウロはこの「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」という律法は牛のためではなく、人間のためにあるのだということ、つまり、福音宣教の働き手のために言われていることなのだと、ここで言っているのです。確かに申命記の25章は4節だけがなぜか動物である牛の話ですが、全体を見ると隣人愛についての教えであることに気づきます。つまり、パウロはこの律法は単に働く牛への憐れみを教えた箇所ではなく、人間への憐れみ、つまり隣人を自分自身のように愛するということを教えている箇所だと解釈したのです。
 また、パウロはコリント教会からは福音のために報酬を受け取りませんでしたが、ピリピという別の教会からは報酬を受け取っていました。それは、ピリピ教会にはパウロの使徒としての権利を疑う者がいなかったからです。パウロはピリピ教会とは良い関係を築けていたようです。そして、ピリピ書を読むと分かるのですが、パウロとピリピ教会の人々には物質的な物のやり取りをただ機械的に行っていたのではなく、そのやり取りの中に愛の交わりがあったのです。
 パウロは続けて言います。10節の二行目からです。「そうです。私たちのために書かれているのです。」この「そうです」という言葉は、新約聖書の元々の言語では、もちろんですとか当然ですと言う意味で使われている言葉です。「私たち」とは、パウロなどの福音宣教の働きをする者たちのことです。つまり、議論するまでもなくこの申命記の律法は、福音宣教の働きをする者のために書かれたのだとパウロは言うのです。
 さらに、パウロは続けてなぜならと、その根拠を説明します。10節後半「なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。」この「耕す者」「脱穀する者」とは、第一コリントの3章6節~9節で、パウロやアポロという福音宣教のために働いた人たちの働きを、植えて、水を注ぐこと、つまり農業に例えたように、福音宣教の働きをする人たちを指した言葉です。
 そして、耕す者は、将来の収穫に「望みをもって」耕し、脱穀する者はのちの分配に「望みをもって」脱穀しているように、その働きを通して得られる報酬に期待して仕事をすることは当然のことであり、誰もその報酬を奪ってはならないわけです。
 ですから、まとめると10節ではそのような福音宣教の働きをする者たちが人々を教え、育て、教会を建て上げることで、報酬を得る望みを持つことは当然のことなのです、とパウロは言っているのです。
 ここまで私たちは、福音宣教の働きをする者が、その働きに応じて報酬を受け取ることは神が律法で定めていること、働く者への正当な報酬は隣人への愛を示す行為であることを確認してきました。しかし、2000年前のことなので少し分かりづらい点もあるかと思いますので、最後に私が体験した献金を通して感じた愛の話をして終わりたいと思います。
 それはあるキャンプの集会でメッセージを取り次いだ時の話です。その時にキャンプの委員会の方から謝礼を頂くという出来事があったのですが、私はその時自分は神学生で十分な働きをしているとは言えないのに、謝礼を受け取って良いのだろうかと戸惑いました。結論としては、是非受け取って下さいと促されたので受け取らない方がかえって失礼かと考え、結局受け取ったのですが、今思えば信仰者として成熟しておられた担当のスタッフの方が、ここまで語られてきた福音宣教の働きをする者には相応しい報酬を与えるという愛の律法をしっかりと知っておられそして実行されたのだなと思います。そして、それだけでなく、福音宣教の働きの背後におられる神をその方は見据えておられたのだなと説教の準備をしていて私は今回気づかされました。このように兄弟姉妹が示して下さる愛によって神学生は建て上げられ成長していくのだなと実感しています。私たち一人一人が今一度この神からの愛の律法を覚え、福音宣教の働きに相応しい報酬を福音宣教者たちに支払うことで互いに愛の交わりを深め、その背後におられる神を共に見上げ礼拝してまいりましょう。
 恵み深い天の父なる神様、本日は福音宣教の働きをする者が、その働きに応じて報酬を受け取ることは、神様が定めて下さったことであることを皆で確認いたしました。また、そのようなやり取りの中には愛の交わりが生まれることも確認いたしました。どうか私たちが福音宣教の働きをする人々を愛によって支え、私たちも共に恵みに与りながら神様を礼拝することが出来ますように教会を励まして下さい。このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。