そのころ弟子の数が増えるにつれて、(増えたことで)大きな問題が起こります。このようなことを聞くと、増えない方がいい、問題が起こるよりは、少ないままでいい、と思う人もいるでしょう。では、エルサレムの教会は、どうしたでしょうか?十二人の使徒たちと教会は、その問題と取り組みます。こうして、7節をご覧ください。これが、教会です。教会は、迫害を受けることもある、また教会の中で問題が起こることもあります。しかし、その一つ一つに、聖霊なる神様に、助けていただきながら、取り組むことで、教会は成長して行く、ということです。
:1(読む)ここに、そのころの教会の様子が記されています<弟子の数が増えるにつれて>とあります。このことが、問題の発端(原因)でした。また、人数だけではありません。言葉が違う人々が、加えられて来ていました。<ギリシア語を使うユダヤ人たち>とあります。この人たちは、ユダヤ人だけれども、ヘブル語を使えない人たち、生まれや育ちが外国で、ヘブル語ではなく、ギリシア語を使う人たちです。そのような人びとと、言葉だけではなく文化が違う、社会的な立場も異なる<ヘブル語を使うユダヤ人たち>がいたのです。
では、具体的にどのような問題があったのでしょう?“ギリシア語を使う、ユダヤ人のやもめたち”が、毎日の配給においてなおざりにされていた(見過ごされていた)のです。(ここでの“やもめ”というのは、「夫を亡くした独身の女性」のことです。)教会は、やもめのために、毎日、配給をしていたようです。そのための資金は、4章の34節から37節に記されていました。このように、資金は、使徒たちが管理していました。そして、食卓のことにも仕えていたのです。そのころ、教会は、男性だけで五千人を超え、さらに、増えていました。そのような状況の中で、“ギリシア語を使う、ユダヤ人のやもめたち”が、なおざりにされるということが、起こっていたのです。
では、使徒たちは、どうしたでしょう?男性も女性も大勢になり、とても大変になったので、やめようとしたでしょうか?やめようとは、しませんでした。やもめたちへの配給は、主のみこころにかなったことだったからです。私たちにも、主のみこころを、継続して行っている間に、問題が起こるということがあります。そのような時には、問題が起こったからといって、みこころに従い続けることを、あきらめないようにしましょう。
使徒たちが、その問題に、どのように取り組んだのかが、2節から4節に、記されています。まず、確認します。問題は、何だったでしょう?“ギリシア語を使う、ユダヤ人のやもめたち”が、毎日の配給においてなおざりにされている、ということでした。そこで、2節です。このように使徒たちは、まず初めに、何が良くないことなのかを、全員に教えました。こんにちの教会においても同じです。牧師が、神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは、良くありません。例えば、説教の準備を後回しにして、他のことに仕えるのは良くないことです。まず、牧師と教会員、全員が、このことを、知らなければなりません。
その上で、使徒たちが、命じたことは、3節です。皆さんは、この選ぶ基準を聞いて、どう思いますか?食卓のことに仕えるのに、その資格は、「何よりも食卓に仕える能力がある人」、「そのような能力さえあれば良い」ということではありませんでした。その資格は、「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人」ということだったのです。私たちも、それぞれ、奉仕をしています。私たちは、自分自身の能力を問うこともあるでしょう。自分自身で、成功か、失敗かを、問うこともあるでしょう。しかし、主が、私たちに求めておられるのは「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人であること」なのです。
:3後半、4(読む)七人を選ぶ目的は、2つです。その人たちに、食卓の務めを任せるため、そして、使徒たちは、祈りと、みことばの奉仕に専念するためです。私たちの教会でも、先日、新年度の奉仕者が、任命されました。その目的も、同じです。その奉仕者に、その務めを任せるため、そして、牧師は、祈りと、みことばの奉仕に専念するためです。神のことばを、後回しにするのは、良くないので、牧師は、祈りと、みことばの奉仕に専念する、そのことのためです。これが、目的です。
ですから、7節をご覧ください。このようには、記されていません。「こうして、“ギリシア語を使う、ユダヤ人のやもめたち”が、毎日の配給において、なおざりにされることはなくなった。」そうではなく、このような結果が、記されています。私たちも、神のことばが、ますます広まっていくことを願っています。弟子の数が非常に増え、また大勢の方々が、次々と信仰に入ることを願っています。私たちも、このような主のみわざを、待ち望んでいます。どうしたら良いでしょう?私たちが、出来ることは、5節です。5節に、<この提案を一同はみな喜んで受け入れた>とあります。私たちの教会では、新年度に向けて、奉仕の分担をすることができました。そのことを、喜びましょう。各奉仕者たちに、それぞれの務めが任され、牧師が、より祈りと、みことばに専念できるようになったことを、私たち全員で喜びましょう。