ルカの福音書23章26節~31節
「自分の十字架をおって」

 教会歴では、今日から受難週が始まります。私たちの主の受難をおぼえるときです。具体的には、二つ、・私たちが、イエス様を、十字架につけて殺したということ。・イエス様は、私たちのために、十字架の上で死なれたということ。この二つを、おぼえたいと願います。ですので、聖書朗読では、その実際が、記されている箇所を読みました。この聖書箇所から、今年は、26節から31節までのみことばを、ともに頂きたいと思います。
 では、26節です。<彼らは>と始まります。この彼らというのは、どのような人々だったのでしょう?少し、戻ってみましょう。13節です。<ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め>とあります。彼らというのは、この「ユダヤ教の祭司長たち」、「最高法院の議員たち」、そして「ユダヤの民衆」でした。彼らは、18節をご覧ください。<しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」>その男というのは、イエス様のことです。彼らは、叫び続けました。23節~25節を読みます。このようにピラトは、ピラトというのは、総督だった人物です。当時、ユダヤは、ローマ帝国の属州でした。その属州ユダヤに、ローマから総督として遣わされていたのが、ピラトでした。ピラトは、イエス様を、祭司長たちに引き渡して、好きなようにさせます。
 一方、引き渡された、祭司長たちはどうしたのか?26節に戻って来ました。普通、十字架を負わされるのは、死刑にされる犯罪人(本人)でした。犯罪人が「どくろ」と呼ばれている場所まで、自分で運び、十字架につけられたのです。ですから、この場合、イエス様でした。しかし、彼らは、途中で、シモンという人物に、十字架を負わせます。なぜ、そのようにしたのか?その理由は、記されていません。記されているのは、・そのシモンが、田舎から出て来たクレネ人だったこと、・彼らはそのシモンを捕まえ、十字架を負わせて、イエス様の後から運ばせたということ、です。シモンは、田舎から出て来て、“都”であるエルサレムにいました。<クレネ人>とありますが、クレネというのは、北アフリカにある、地中海沿岸の都市です。クレネ出身のユダヤ人でした。このように、シモンは、・捕まえられ、・犯罪人ではないのに、十字架を負わされ、・死刑にされるイエス様の後から、運ばせられたのです。
 皆さん、このシモンの姿から、思い出す“みことば”は、ありませんか?9章23節です。ルカは、このみことばに合わせて、シモンのことを記しています。祭司長たちは、シモンに十字架を負わせて、イエス様の後から運ばせました。シモンは、その出来事によって、弟子とされたのです。イエス様は、このようにも言われました。14章の27節です。<自分の十字架を負って>とは、どういう意味でしょうか?おそらく弟子たちは、実際に、人が「自分の十字架を負う」のを見たことがあったでしょう。私たちも、想像してみましょう。村のある人が、ローマ兵たちに、十字架を負わされて、「どくろ」のような刑場に向かいます。その人が、帰って来ることは、決してありません。ですから、十字架を負うとは、究極の自己否定を意味しています。シモンは、実際に、木の十字架を負わされ、イエス様の後から、「どくろ」まで運ばせられました。その出来事が、シモンにとっては、「自分の十字架を負って、イエス様に従って行く“弟子としての第一歩”」と、なったのです。
 さらに、マルコの福音書を見てみましょう。マルコ15章、:21(読む)ルカの福音書に記されていたことが、マルコの福音書では、このように記されています。・シモンは、通りかかっただけだったこと。・無理やりであったこと。・シモンは、アレクサンドロと、ルフォスの父であったことが、知らされています。このルフォスは、ローマ人への手紙(16:13)に、名前が出てきます。そこで使徒パウロは、ルフォスを「主にあって選ばれた人ルフォス」と呼んでいます。また“ルフォスの母”のことも、記しています。使徒は、ルフォスの母のことを、“私の母”とも呼んでいます。ですから、シモンの息子ルフォスと、その母、ですから、シモンの妻も、ローマの教会員となったということです。通りかかったシモンは、イエス様の十字架を、無理やり負わされました。そのようなことを通して、主は祝福してくださり、主は報いてくださったのです。
 私たちは、どうでしょう?“自分の十字架を負い、イエス様に従って行く者(弟子)とされた”のは、どのようなことによって、でしょうか?“そこを、通りかかったら”ということだったかもしれません。或いは、“誰かに、無理やり背負わされた”ということだったかもしれません。しかし主は、そのようなことを通して、祝福してくださり、報いてくださるのです。
 では、今日の箇所にもどりましょう。ルカの23章27節から31節です。:27(読む)<イエスの後について行った>とあります。ですから、26節の「シモン」と、27節からの「大きな一群」が、並べられていることが、分かります。イエス様への、“シモンのついて行き方”と、“大きな一群のついて行き方”が、対比されています。27節に、<イエスのことを嘆き悲しむ女たち>とあります。イエス様が、十字架につけられる(死刑にされる)ことを、嘆き悲しんでいたのでしょう。
 しかし、イエス様は、このように言われました。:28(読む)<エルサレムの娘たち>とあります。エルサレムとは、どのような都だったのでしょう?第一列王記では、このように紹介されています。「主が、ご自分の名を置くために、イスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレム」(14:21)そのエルサレムが、イエス様のことを、嘆き悲しみました。しかし、本当に嘆き悲しむべきは、エルサレム自らのこと、だったのです。
 なぜでしょう?エルサレムの“終わりの日”が来るからです。:29(読む)エルサレムにとって、子は、神様からの“良い賜物”でした。しかし、そのような人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る、つまり、それほど困難な日が来る、ということです。特に、子どもが苦しむのは、悲惨なことので、「子どもがいない方がましだ」と、人々は言います。つまり、子どもを産まなかったことが、祝福とみなされるほどに、とても困難な日が来る、ということです。
 :30(読む)どういうことでしょう?「殺して欲しい」と言い始める、ということです。なぜですか?神様の御怒りが、あまりにも恐ろしいからです。そのとき人々は、御怒りから逃れるために、「死にたい」と、叫び始めます。イエス様は、そのようなときが来る、と言われたのです。
 :31(読む)「生木」と、「枯れ木」は、たとえです。この「生木」と、「枯れ木」にたとえられているのは、どのような人々なのか?おもに、二つの理解があります。一つは、生木は“イエス様”、枯れ木は“エルサレム”という理解です。エルサレムは、いのちであるイエス様を十字架にかけ、ついに枯れたものとなってしまいました。枯れ木は、火で焼かれます。枯れ木のたとえは、さばきの火で焼かれる“罪ある者”を表しているのです。このイエス様の警告の通りに、紀元70年に、エルサレムは、ローマ軍によって破壊され、神殿も焼き払われてしまいます。それによって、110万人以上が死亡し、約9万7千人が捕虜となったと伝えられています。
 このたとえのもう一つの理解は、ペテロの手紙によります。ペテロの手紙(第一)、4章です。:17(読む)この後半によって、「生木」と、「枯れ木」を理解することができます。2行目から、「それが(つまり、さばきが)、まず私たち「生木」から始まるとすれば、神の福音に従わない者たち「枯れ木」の結末はどうなるのでしょうか。>さばきは、まず、私たちから始まります。それは、いつから、始まるのでしょう?もう、すでに、始まっています。17節の前半には、このように教えられています。<さばきが神の家から始まるときが来ているからです。>さばきは、神の家から(私たち教会から)始まります。そのときは、すでに、来ています。世の終わりには、大審判がありますが、実は、さばきは、もう、神の家(教会)で始まっているのです。今です。
 どのようにして、でしょう?12節をご覧ください。:12(読む)<愛する者たち>と、使徒ペテロが、呼びかけているように、教会は、神様が愛しておられる人々の集まりです。そのような教会で、試練が起こります。どのような試練ですか?「あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練」とあります。神様は、試練によって、私たちを試み、さばいておられるのです。私たちには、試練があります。・キリストの苦難にあずかる。・キリストの名のためにののしられる。・キリスト者として苦しみを受ける。そのような試練によって、神様は、私たちが、本物のクリスチャンなのか、それとも、偽クリスチャンなのかを試み、さばいておられるのです。燃えさかる試練は、偽クリスチャンを、焼き尽くします。
 イエス様は、言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」たとえ、試練の日々であっても、です。いや、むしろ、試練の日々にこそ、“自分に”ではなく、“イエス様に”従って行きましょう。また、イエス様は、言われました。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」自分は、弟子になったのか?(弟子になっていないのか?)普段は、分かりません。教会は、・イエス様の弟子も、・弟子ではない人も、混ざっています。しかし、試練が起こると、分かります。神様は、試練によって、弟子なのか?(弟子ではないのか?)を試み、さばかれるからです。
 私たちが、嘆き悲しまなければならないことは、何でしょう?それは、自分を捨ててまでは、日々自分の十字架を負ってまでは、イエス様に従ってはいない、ということです。私たちが、泣いて、悔い改めなければならないことは、自分の十字架を負わないで、つまり、自分自身に従ったままで、まだ、イエス様には従いたくなくて、今も、弟子になっていないことなのです。