先週は、7節までを学びました。少し、振り返ってみましょう。4節をご覧ください。:4(読む)わがぶどう畑というのは、神の民のことです。神の民が、主のぶどう畑にたとえられています。主が、神の民になすべきことで、しなかったことは、何一つありませんでした。ですから、主は、ぶどうがなるのを心待ちにしておられたのです。ぶどうというのもたとえです。主は、神の民の公正、正義を、心待ちにしておられたのです。しかし、酸いぶどうができてしまいました。悪いぶどう、悪臭のする実ができてしまったのです。7節には、このようにあります。:7(読む)では、実際に流血、 悲鳴とは、どのようなものであったのか?それが、8節以下に記されています。
先ほど、司式者が朗読してくださいましたが、今日の箇所には、「わざわいだ」ということばが、6回も出てきます。まず、8節です。:8(読む)これは、神の民の中に、どのような人々がいたということですか?自分たちだけ、という貪欲な人々がいたということです。そのような人々は、家に家を、畑に畑を手に入れていました。他に人々には土地を残さず、自分たちで土地を独占しようとしていたのです。神の民ですから、土地は、主に属しているということを知っていたはずです。また、イスラエルでは、家族の所有地は、家族内で保有されていました。しかし、力のある人々が、隣人のものを欲しがり、その家をゆすり取り、その畑をかすめる(盗む)ことまでしていたのです(ミカ2:2)。土地の投機(売買)もなされていたようです。
そのような人々を、主は「わざわいだ」と、言われました。そして、イザヤに、告げられたのです。9節、10節です。<私の耳に万軍の主は告げられた。「必ず>必ずです。主は、必ず、さばかれます。<多くの家>それは、貪欲に、家に家を連ねたものでした。しかし、その多くの家は、荒れすたれます。また、<大きな美しい家々>は、隣人から搾取して(しぼり取って)建てたものでしょう。そのような家々も、住む者がいなくなるのです。
なぜでしょう?10節に、その理由(原因)が知らされています。それは、ぶどう畑の収穫が、あまりにも少なくなるからです。畑に畑をと、むさぼる者たちは、とても広い畑を自分のものとします。しかし、土地は、その広さに応じた収穫をもたらしません。ツェメド、バテ、ホメル、エパという単位で表されていますが、これは、普段なら取れる収穫量の十分の一だけを産する、ということでしょう。このように、主は、むさぼりという罪を、必ず、さばかれるのです。
次は、11節です。ここで、わざわいだと言われているのは、どのような人々でしょう?12節に<彼らの酒宴には>とあります。ですから、酒宴ばかりしている人々です。今風に言えば、パーティーやフェス、イベントなどを、次から次へと追い求め、そのような騒ぎに身を委ねている人々のことでしょう。神の民であるのに、です。2節の後半には、このようにあります。<彼らは主のなさることに目を留(と)めず、御手のわざを見もしない。>彼らは、主のなさること、御手のわざに、無関心でした。なぜでしょう?関心があるのは、いつも酒宴だからです。関心があるのは、酒宴の音楽と酒のことばかりで、主のなさること、御手のわざには無関心だったのです。
皆さん、このような罪を、決して軽いものだと考えてはいけません。むしろ、どれほど重いのかが教えられています。13節は、<それゆえ>と始まります。さらに、14節で、<それゆえ>と、二重のさばきが預言されています。13節では、捕え移される、捕囚となること、14節では、よみというのは、死んだ者たちが住む場所のことです。よみに落ち込む、エルサレムは、エルサレムごと滅びるのです。:15、16(読む)主は、さばかれます。高ぶる者たちを、不動産をむさぼり、高ぶる者たちを、主には関心がないという高ぶる者たちを、必ず、さばかれるのです。
16節の2行目、3行目をご覧ください。<聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。>言葉の説明をすると、“聖なる”というのは、分離された(分けられた)というのが元々の意味です。ですから、神様は、人間とは分けられている、つまり、神様は、超越しておられる、唯一であられる、ということです。もう一つ、正義という言葉です。<正義>は、まっすぐというのが、元々の意味です。神様は、まっすぐな基準によって、まっすぐにさばかれるのです。一方、人間のさばき(裁判)は、どうでしょう?曲がっています。まっすぐであることを願いますが、どこかが必ず曲がっています。咎という言葉があります。(罪、咎の咎です。)その元々の意味は、ゆがみ、ひずみです。人間は、咎によってさばくほかありません。しかし、万軍の主は、正義によって、です。16節をもう一度読みます。<しかし、万軍の主はさばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。>正義は、まっすぐ、咎は、ゆがみです。何に、対してですか?(正義は、何に対してまっすぐで、咎は、何に対してゆがんでいるのでしょう?)神の律法、みことばに対してです。聖なる神は、みことばによるさばきによって、自ら聖なることを示されるのです。
次の17節、<子羊は・・・草を食べ、超えた獣は・・・食をとる>とあるので、ざっと見ると、ほのぼのとした感じもしますが、違います。これは、“ゴーストタウンとなる”という預言です。2行目に<廃墟に>とあります。エルサレムは、神様のさばきによって、廃墟となるのです。