今、朗読した聖書のことばは、イザヤという預言者が記したものです。イザヤは、紀元前8世紀後半、今から約2,700年以上前に生き、活動したことが知られています。当時、アッシリアが、とても侵略的になり、アラムとイスラエル、またユダは政治的にも、軍事的にも不安を抱えていました。そのような状況が、イザヤの使命の背景にあります。
今日は、先に、10:20-27を見てみましょう。そのあとで、9章の8節から、どのような文脈で(前後関係で)告げられたのかを見てみたいと思います。では、20節から、「イスラエルの残りの者」と、「ヤコブの逃れの者」は、同じ者たちです。イスラエル、ヤコブは、神の民のことです。<もう二度と自分を打つ者に頼らず>とありますが、自分を打つ者とは、アッシリアのことです。南ユダは、神の民とされていました。神の民とされていたのに、神様に頼らず、アッシリアに頼ったのです。アッシリアは、一時的には、南ユダを救います。救いますが、その後、ユダにまで軍事侵攻し、ユダを打ったのです。しかし、「もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る、そのような日が来る」という預言です。
:21(読む)アッシリアは、神の民を打ちますが、残る者、残される者がいます。その者たちが、立ち返るのは、「力ある神に」です。この「力ある神」は、すでに、9章6節で、示されていました。9章の6節をお開きください。:6(読む)この預言を成就するために、お生まれになったのがイエス様です。イエス様こそ、力ある神です。
では、10章の20節、21節にもどりましょう。20節<その日になると>、その日というのは、終わりの日です。終わりの日になると、残りの者たちは、力ある神に立ち返ります。では、私たちも、その日を待ち望んでいますが、どのように、待ち望んだら良いのでしょう?アッシリアのような力には頼らない、ということです。アッシリアのような力というのは、自分たちが不安なときに、つい頼りたくなる、神様以外の何らかの力です。(神様ではない、他の力です。)今の社会を考えてみましょう。社会が不安になると、人々は、どのような力に頼ろうとするでしょう?様々な力に、ですね。しかし、私たちは、聖なる方、主に真実をもって頼りましょう。いつでも、力ある神に、立ち返りましょう。神様以外の力あるものは、滅びるからです。
次です。:22、23(読む)「あなたの民イスラエル」というのは、アブラハムの子孫のことです。神様は、アブラハムを祝福されました。そして、アブラハムの子孫をご自分の民とし、海の砂のように大いに増やすことを、約束してくださったのです。こんにち、アブラハムの“信仰による”子孫たちは、地域の教会にいます。すでに、亡くなった子孫たちを含めると、その人数は、海の砂のように、あまりにも多くて数え切れません。しかし、主に帰って来るのは、その中の残りの者だけです。壊滅は、定められています。万軍の神、主は、「主に真実をもって頼らない者」、「力ある神に立ち返らない者」のすべてを、滅ぼされるのです。
それゆえ、24節から27節です。主は、イスラエルを滅ぼされたあとに、アッシリアを滅ぼされます。:24~27(読む)アッシリアというのは、こんにちでは、神の民を迫害する国家や、神の民に敵対する者たちのことです。そのようなことは、今もありますし、これからも、続くでしょう。しかし、主は、「恐れるな」と言われます。なぜなら、もうほんの少しで、主の怒りはアッシリアを(アッシリアのような存在を)滅ぼしてしまうからです。
27節<その日になると>とあります。神の民は、今は、まるで奴隷のようです。迫害する国家の重荷は肩に、敵対する者たちのくびきは首にあります。(くびきというのは、奴隷の自由を奪い、行動を制約するものです。)しかし、その日になると、くびきは外されます。最後の行に、<くびきは脂肪のゆえに外される>とあります。この脂肪は、豊かさや、力の象徴でしょう。ですから、私たちも、迫害を恐れずに、主に真実をもって頼りましょう。もう、ほんの少しで、その日になるからです。迫害を恐れずに、力ある神に立ち返りましょう。以上が、その日についての預言です。