イザヤ8章1節~9章7節
「インマヌエルの四説教(2)」

 まず今日の説教箇所ですが、説教箇所は8章1節から9章7節までです。この箇所から、「インマヌエルの四説教(その2)」と題して、説教をいたします。その中から、聖書朗読は、9章の1節から7節までを読んでいただきました。9章の1節、2節をご覧ください。この預言を成就するために、このあとおよそ700年後に、イエス様は、ガリラヤで宣教を始められたのです。そのことは、マタイの福音書に記されていますので、ともに開いてみましょう。マタイの4章です。:12~17(読む)きょうは、この預言者イザヤを通して語られたことが、どのような状況で語られたのかを理解したいと思います。
 もう一つ、今日の箇所にもどりましょう。イザヤ書9章の6節、7節です。このように、イザヤは、「ひとりのみどりごが、私たち与えられること。」(みどりごとは、赤ん坊のことです。)「そのみどりごは、とこしえに、平和の王となられること」とを、預言しました。この預言は、いつ成就したのでしょう?御父が、御子を世に遣わされた時に、(イエス様が、人として来てくださった時に)、実現したのです。
 イエス・キリストこそ、まことの光でした。あらためて、2節を振り返ってみましょう。<闇の中を歩んでいた民は 大きな光を見る。>この大きな光は、イエス・キリストでした。(続きを読みます)<死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が輝く。>宣教を始められたイエス・キリストこそ、輝く光だったのです。苦しみのあったところに、闇がなくなりました。辱めを受けていましたが、栄誉を受けるようになりました。イエス様が来られ、喜びは増し加えられたのです。
 では、そもそもです。なぜ、まことの光であられるイエス様が、来られた時に、民は、闇の中を歩んでいたのでしょう?人々は、死の陰の地に住んでいたのでしょう?なぜ、主は御顔を隠しておられたのでしょうか?私たちは、その預言がなされたイザヤの時代にさかのぼって、見てみたいと思います。
 まず、第一に、北イスラエルが、“ダビデの子孫である王”を、拒んだからです。8章です。8章の5節、6節をご覧ください。“この民”というのは、北イスラエルの民のことです。北イスラエルの民は、<ゆるやかに流れるシロアハの水を拒み>、“シロアハの水”、つまり、“ダビデの子孫である王”を拒み、<レツィン>(アラムの王)と、<レマルヤの子>(北イスラエルの王)を喜んでいたのです。つまり、北イスラエルの民は、“ダビデの子孫である王”を拒み、ほかの国や、自分の国の王を喜んでいたのです。それゆえ、民は、闇の中を歩むことになりました。
 主が、ダビデに告げられたこと拒んだからです。主は、ダビデに、「ダビデの子孫として生まれる王の“王国”、“王座”を、とこしえまでも堅く立てる」と、約束されました。シロアハの水です。シロアハというのは、エルサレムの“水の供給源”だった所です。その水は、“ギホンの泉”と呼ばれる泉からあふれて、エルサレムに流れ込んでいました。そのギホンが、「ダビデ家(け)の即位式の場所」だったのです。ですから、“シロアハの水”の流れは、“ダビデの子から子へと続く王たち”を表していた、と考えられます。北イスラエルの民は、そのシロアハの水を拒み、ほかの国の王や、自分の国の王を喜んだのです。
 それゆえ、7節です。<それゆえ、見よ。主は、強く水の豊かなあの大河の水、アッシリアの王とそのすべての栄光を彼らの上にあふれさせる。>ここでは、アッシリアも“水”に、たとえられています。主は、このみことばの通りに、アッシリアを、北イスラエルに攻め込ませ、さばかれたのです。
 水の勢いは、それで止まりません。さらに、南ユダにまで、流れ込みます。ユダの王アハズが、主ではなく、アッシリアに救いを求めたからです。流れ込ませるのは、主です。7節の続きを読みます。<それはすべての運河にあふれ、 すべての堤を越え、>8節<ユダに勢いよく流れ込み、あふれみなぎって 首にまで達する。>ここまでが、水にたとえられていて、次は、アッシリアが、ワシのような猛禽類にたとえられています。(大形で、速く飛び、鋭いくちばしと、つめを持ち、小鳥や、小動物を捕食する鳥に、です。)<その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの地(つまりユダ)をおおい尽くす。>
 この預言の通りに、主は、アッシリアによって、イスラエルを滅ぼされ、さらにユダを滅ぼそうとされます。しかし、ユダを、滅ぼし尽くそうとは、されませんでした。あらためて、8節をご覧ください。<ユダに勢いよく流れ込み、あふれみなぎって>どこまでですか?首にまで、です。“頭の上にまで”、ではなく、“首にまで”、でした。ユダには、残る民がいる、残された民がいるのです。なぜでしょう?それは、ユダが、インマヌエルの地だからです。8節の終わりで、<あなたの地>と呼ばれているのは、ユダの地のことです。
 では、そののち、インマヌエルの地は、どのようになるのでしょう?9節、10節の預言です。この預言は、まだ成就していません。しかし、終わりのときには、諸国の民は打ち砕かれ、イエス様が、ダビデの王座に就いて、その国をとこしえに治められるのです。そのとき、私たちも、イエス様と、ともにいます。神様が、私たちと、ともにおられるからです。
 第二に、まことの光であられるイエス様が、来られた時に、民が闇の中を歩んでいた(死の陰の地に住んでいた)のは、なぜか?ユダが、“主の民の道”ではなく、“世の民の道”に、歩んだからです。11節をご覧ください。<私>というのは、イザヤのことです。主は、イザヤを、戒めて言われました。ただ言われたのではありません。どのように、ですか?まことに、主は、強い御手をもってイザヤを捕え、戒めて言われました。この戒めに従うことが、どれほど大切なのかが分かります。
 では、その戒めとは、どのようなものだったのでしょう?「この民の道に歩まないよう」に、という戒めでした。この民というのは、ユダの民のことです。当時、アッシリアは、その領土を拡大していました。その脅威に対して、アラムとイスラエルは、同盟を組んだのです。さらに、ユダも、加えようとしましたが、ユダは加わろうとしなかったので、攻め入ろうとしました。
 そこで、ユダの王アハズは、アラムと、イスラエルを恐れて、アッシリアに救いを求めようとします。しかし、イザヤは、そのアッシリアによって、アラムもイスラエルも、滅ぼされ、さらに、ユダも支配されることを預言したのです。それを、ユダの民は、謀反と呼んだのです。
 そのような中でのことです。11節から14節の1行目までを読みます。<そうすれば、主が聖所となる。>主が、あなたがたのうちに、お住まいになる、という約束です。主は、私たちと、ともにおられます。ですから、私たちは、“世の民の道”ではなく、“神の民の道”を歩むべきです。
 12節と13節を見比べてみてください。謀反と呼ぶことを、何一つ謀反と呼ばずに、万軍の主を聖なる者とすべきです。世の民が恐れるものを恐れるのではなく、神の民は“主こそ恐れ”とすべきです。しかし、イスラエルの二つの家(北イスラエルと南ユダ)は、世の民の道を歩みます。ですから、主が<妨げの石>となられました。14節の2行<しかし>から15節までを読みます。なぜ、民は闇の中を歩んでいた(死の陰の地に住んでいた)のでしょう?それは、世の民の道に、歩んだからです。私たちは、決して、世の民の道に、歩んではなりません。
 あらためて、12節、13節の前で、静まってみましょう。御霊が、私たち一人一人に適用してくださるようにと願いつつ、読みます。・世の民が、謀反と呼ぶことを、謀反と呼んでいないだろうか?主に救いを求めるのではなく、賢いと思われる政治的な判断や、外交政策によって、自分の知恵や知識、行動によって救いを得ようとしていないか?・世の民が恐れるものを、同じように恐れ、おびえていないだろうか?今、人々が(社会が)、恐れているものは何でしょう?考えてみましょう。世の民が、恐れるものを、同じように恐れ、おびえ続けるならば、ついには、主につまずき、倒れて打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられることになります。・13節、私たちは、主を聖なる者とし、私たちの恐れとしているだろうか?主を聖なる者とするには、どうしたら良いのでしょう?まず、その意味です。主を聖なる者とする、とは、「主を、他の一切から超越し、隔絶された絶対的存在者とすること」です(『新キリスト教辞典』)。イザヤたちにとって、それは、エジプトからイスラエルを救われた主(万軍の主)をおぼえる、ということでした。
 かつて、イスラエルは、エジプトで、奴隷でした。そのようなイスラエルを、主は、大国であったエジプトから、権力者であったファラオから、救いだしてくださったのです。どのように、ですか?エジプトよりも、さらに強い軍事力と、大きな権力によってでしたか?いいえ、違います。もし、そうであったならば、主は、聖なる者ではありません。なんと主は、・ナイル川の水を血に変え・エジプトの全領土を蛙によって打ち・地のちりを、エジプト全土でブヨとされ、さらに・エジプトの家々も、地面も、アブの群れで満たし、全土を荒れ果てさせ・家畜すべてに、非常に重い疫病を起こし・かまどのすすが、人と家畜に付くと、うみの出る腫れものとなるようにされ、さらに、・それまでになかったような非常に激しい雷と雹を、全土に送り・いなごの大群が、エジプトのすべてのものを食い尽くすようにし・エジプト全土を、三日間暗闇とされました。
 そして、・主は、エジプトの地の全ての長子を、みな打たれ、イスラエルを救い出してくださったのです。そのあと、エジプトの軍勢が、追跡しますが、主は、葦の海を分け、イスラエルが、海の真ん中の乾いた地面を行くことが出来るようにされ、一方、あとを追って来たエジプト人を、海を元の状態に戻し、そのただ中に投げ込まれたのです(出エ7-15章)。イザヤをはじめ私たちは、そのような主を、聖なる者とし、恐れるべきです。
 イエス様は、私たちに、祈りを教えてくださいました(マタイ6:9)。その祈りは、「主の祈り」と呼ばれ、私たちも、祈っています。その第一の祈りは、何でしょう?新聖歌では、「御名をあがめさせたまえ」です。名というのは、聖書では、その人の人格、その人そのものを表します。「御名をあがめさせたまえ。」この“あがめる”が、直訳すれば、「聖とする」「聖と認める」です。ですから、私たちの第一の祈りも、このような願いであるべきです。「御名が聖なるものとされますように。」・まず、“私たちが”、です。「私たちが、主を聖なる者とし、私たちの恐れとすることができますように」と、祈りましょう。・また、“私たちの歩み方(生き方)によって”、です。「私たちの歩み方(生き方)によって、御名が、聖なるものとされますように」と、祈りましょう。
 第三です。まことの光であられるイエス様が、来られた時に、民が闇の中を歩んでいた(死の陰の地に住んでいた)のは、なぜか?イスラエルの神に尋ねなかったからです。:19、20(読む)このようにユダは、自分の神に尋ねませんでした。霊媒、口寄せによって、死人に尋ねたのです。「死人の方が、生きている者よりも、優れた力や、高い知識を持っている」と考えていたようです。しかし、聖書は、そうではないことを教えています。私たちは、ただ、みことばに、尋ねなければなりません。もし、“みことばにしたがって語り、そのみことばに従わないなら”、夜明けはないからです。
 では、ユダは、どうしたのでしょう?みことばにしたがって語り、そのみことばに従うことは、ありませんでした。ですから、この預言が、成就したのです。:21、22(読む)しかし、9章の1節です。<しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。>それは、なぜか?残った民、残された民が、主を待ち望んでいたからです。
 すぐ上の、8章17節をご覧ください。私というのは、預言者イザヤです。このように、イザヤは、主を待ち望みました。忍耐をもって、待ち、確信をもって、期待していたのです。イザヤの時代、主は、御顔を隠しておられました。ユダの王アハズが、みこころに背いたからです。その結果、主に従っていたイザヤたちも、免れずに、同じ闇の中を、歩まざるを得なくなりました。
 しかし、イザヤたちは、その闇の中で、光を待ち望んだのです。その光とは、9章に預言されているイエス・キリストです。:6、7(読む)この預言は、“すでに”成就しましたが、“いまだ”成就していません。“すでに”というのは、イエス様が、お生まれになられたからです。“いまだ”というのは、イエス様が、再臨なさっていないからです。万軍の主、あのイスラエルをエジプトから救い出された主の熱心が、この預言を成就させます。
 今日から、待降節(アドベント)に入ります。主イエス・キリストは、再び、私たちのところに来られます。あらためて主を、待ち望みましょう。主に相応しく、聖い生活を送りましょう。