使徒の働き4章32節~5章11節
「神を欺く罪」

 私たちの教会全体にも、主への大きな恐れが生じることを願います。先週は、31節までを学びました。教会は、最高法院(サンヘドリン)の迫害を受けました。ペテロとヨハネが、捕えられ、留置され、その翌日には、尋問を受け、「イエスの名によって語ることも、教えることも、一切してはならない」と脅されました。さらに、脅され、釈放されたのです。しかし、教会は、そのことを、みことばの成就として理解しました。そして、「主のみことばを大胆に語らせてください」と祈ったのです。主は、その通りに、してくださいました。:31(読む)このように、教会は、迫害を受けながら、聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り続けたのです。
 <さて>今日の箇所、32節です。32節からは、外に対してではなく、内はどうであったのかが、記されています。外からは、迫害がありましたが、教会は、どのようであったのでしょう?聖霊による交わりがありました。同時に、サタンの試みもあったのです。そして、神様を欺いた夫婦への“主のさばき”がありました。私たちも、神様を恐れましょう。サタンに心を奪われて、聖霊を欺くことがないようにと、願いましょう。
 では、:32(読む)<さて、信じた大勢の人々は>とあります。このときのエルサレム教会は、何人ぐらいだったのでしょう?4章の4節では、「男の数が五千人ほどに」なっていましたので、それぐらいの規模になっていました。(32節にもどります)信じた大勢の人々は<心と思いを一つにして>とあります。教会は、心と思いを一つにしていたのです。何によって、でしょう?33節から、考えてみてください。<主イエスの復活>とあります。主イエスの復活、つまり、「復活された主イエス・キリスト」への心と思いによって、一つとなっていたのです。これが、教会です。私たちは、何によって、一つとなるのでしょう?復活された主イエス・キリストへの心と思いによって、一つとなるのです。
 主への心と思いによって、信じた人々は、どうしましたか?32節です。だれ一人、自分が所有しているものを「自分のもの」と言わず、すべてを共有にしていました。また、使徒たちは、主への心と思いによって、何をしましたか?33節です。使徒たちは、主イエスの復活を、大きな力をもって証ししました。このように教会が、その交わりによって、また言葉によって、“主イエスの復活を証し”したのです。「主イエスの復活を証しする」ということで、“一つ”でした。そのような教会に(全員の上に)、大きな恵みがあったのです。
 では、もう少し、32節のことを学んでみましょう。このような姿は、すでに2章にも記されていました。44節、45節です。このように、一切の物を共有していました。それは、このような意味で、です。皆それぞれ、自分の財産や、所有しているものがありました。ありましたが、教会に経済的な必要が生じると、自ら進んで売り、喜んで分配していたのです。
 4章の32節でも、同じ姿が、記されています。32節<だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず>とあります。なぜでしょう?“主のもの”だと信じていたので、“自分のもの”と言わなかったのです。ですから、すべてを共有していました。言い換えるならば、すべてを“主のもの”としていたのです。実際には、皆それぞれ、自分の財産や、所有していたものがありました。ありましたが、聖霊様が、「分け与えなさい」とおっしゃれば、みこころに従って、分配したのです。34節、35節を読みます。なぜ、エルサレム教会の交わりは、このようであったのでしょう?33節に記されているように、“主イエスの復活”を信じていたからです。また、“自分たちの復活”を、信じていたからです。“御父が、御子を復活させた”ということを、私たちが信じるなら、主は、私たちを復活させてくださいます。
 イエス様は、復活に関して、このようなことを、教えてくださいました。マタイの福音書25章です。31節から46節までです。エルサレム教会の中には、一人も乏しい者がいませんでした。乏しい兄弟、姉妹がいれば、その必要に応じて、教会が、分け与えていたからです。主イエスに、差上げていたからです。そのようにして、教会は、永遠のいのちに入る希望を、証ししました。復活の希望を、証ししたのです。
 (今日の箇所にもどりましょう)使徒の働きの4章です。36節、37節では、その模範として、バルナバのことが記されています。<足もとに置いた>というのは、慣用的な表現で、「法的な権限の譲渡」を表しているのだそうです。ですから、その代金の分配を、使徒たちに任せたということになります。
 ところが、です。5章の1節、2節を読みます。アナニアは、何をしようとしたのでしょう?人を欺こうとしました。土地を売り、まるで、その代金の全てを、持って来たかのように見せかけて、実は、使徒たちの足もとに置いたのは、その一部だけでした。全てと見せかけて、実は、一部だけだったのです。
 すると、ペテロは、言いました。:3(読む)アナニアは、地所の代金の一部を、自分のために取っておきました。それは、サタンに心を奪われて、聖霊様を欺いてのことだったのです。:4(読む)ペテロは、「売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか」と言いました。なぜでしょう?ペテロ自身は、違いました。「売らないでおいても、主のものであり、売った後には、主に差上げるもの」でした。ペテロだけでは、ありません。信じた私たちも同じです。
 では、なぜ、ペテロは、このように言ったのでしょう?相手が、アナニアだからです。アナニアは、このように考えていたのでしょう。「売らないでおけば、自分のものであり、売った後でも、自分の自由になる。」それなのに、誰も強制していないのに<どうして、このようなことを企んだのか>ということです。アナニアは、人を欺こうとしました。しかし、それは、“人を”ではなく、“神の教会を”、“神ご自身を”欺くことになったのです。
 神を欺く罪、それは、どれほどの罪でしょうか?5節、6節を読みます。このように、神様は、アナニアをさばかれました。6節で、若者たちは、すみやかに、アナニアを葬りました。それは、アナニアの死を、“神様からの罰”と、理解したからでしょう。
 適用として、「十分の一献金」を、考えてみましょう。信じている私たちは、みことばに従って、収入の十分の一を献金しています。そこに、大きな恵みが、あります。ところが、十分の一献金の袋を使い、十分の一であるかのように見せかけて、実は、そうではない、という人がいたとします。その一部を自分のためにとっておき、十分の一に満たないにもかかわらず、まるで、十分の一を献金しているかのように、見せかけている人が、いたとします。この人は、何をしているのでしょう?サタンに心を奪われて、聖霊を欺いています。人を欺いているのではなく、神様を欺いているのです。
 7節、8節を、ご覧ください。ペテロは、アナニアの妻に、悔い改める機会を与えています。8節<ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」>しかし、アナニヤの妻は、「はい、その値段です」と、欺きました。このように、悔い改めなかったのです。
 私たちは、悔い改めましょう。見せかけの献金だけではありません。見せかけの礼拝、見せかけの賛美、見せかけの祈り、見せかけの奉仕、見せかけの宣教を、していないでしょうか?その一部は、自分のために取っておいて、まるで、すべてを主に献げているかのように、装っていないでしょうか?誰も強制していません。礼拝をするか、しないかは、あなたの自由です。どうして、見せかけの礼拝をしているのでしょう?それは、人を欺いているのではありません。サタンに心を奪われて、聖霊を欺き、神様を、欺いているのです。御父は、私たちのために、御子をも惜しまずに、捨ててくださいました。そのような主のために、私たちは、喜んで全てを捨てるのです。
 アナニアの妻のことに、もどりましょう。:9、10(読む)このように、神様は、即刻、アナニアの妻を、さばかれました。若者たち、そして教会は、夫ではなく、妻サッピラの死も、神様からの罰だと理解したのです。その罪は、「夫婦で心を合わせて、主の御霊を試みた」というものでした。9節です。<そこでペテロは彼女に言った。「なぜ、あなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。>神様は、夫婦を、祝福し、一つとしてくださいました。なぜでしょう?「夫婦が、心を合わせて、主の御霊に従う」、そのことのためです。しかし、アナニヤと、サッピラは、心を合わせて、主の御霊を試みました。神様の祝福を、夫婦で、自ら、呪いに代えてしまったのです。4章の32節には、このように記されていました。 <さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして>アナニアとサッピラは、夫婦で心を合わせて、信じた大勢の人々とも、心と思いを一つにすべきでした。しかし、二人は、しませんでした。夫婦揃って、信じた人々を欺き、神様を欺いたのです。ですから、この夫婦のことは、一緒に教会生活を送っている夫婦への警告でもあります。
 では、最後です。簡単に、これまでのエルサレム教会の歩みを振り返ってみましょう。教会は、使徒の補充をし、聖霊に満たされ、足の不自由な人を歩かせ、最高法院の迫害にあっても、神のことばを語り続けました。その人数も、百二十人ほどでしたが、三千人ほどが加えられ、さらに、男の数だけで五千人ほどになっていました。全員の上に、大きな恵みがあったのです。
 そのような教会の中で、誰が、働いていたのでしょう?サタンが、働いていたのです。アナニアの心を奪い、神様を欺かせようと働いていました。サタンに、心を奪われないようにしましょう。神様は、心を奪われて、神様を欺いたその人を、さばかれるからです。恐れなければならないのは、私たちをさばかれる神様です。サタンではありません。 ヤコブの手紙には、このように教えられています。 「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」
 神様を恐れ、神様に従いましょう。聖霊様が「分け与えなさい」と言われたら、みこころに従って献金しましょう。全員で、です。そのようにして、私たちが、「主イエスの復活」を信じていることを、証ししましょう。