では、1節から5節です。この1節から5節で、預言されていることは、「主はこのような人物に、王位を、お与えになる」ということです。1節をご覧ください。主が、王位を、お与えになる方は、<エッサイの根株から>、つまり、“ダビデの子から出る”という預言です。エッサイというのは、ダビデの父親の名前です。その根株から、(根株というのは、木の切り株のことですが)なぜ、そのような根株にたとえられているのでしょう?
ダビデの王国が、根株のようになってしまうからです。当時、ダビデの王国は、すでに、イスラエルとユダとに分裂しており、イスラエルはアッシリアに、ユダはバビロンに滅ぼされます。森のようであったダビデの王国は、他の国々に切り倒されて、わずかに残った切り株のようになってしまうのです。ですから、根株というのは、滅びの象徴でもあります。しかしその根株から、新しい芽が生え、若い枝が出て、実を結ぶというのです。(滅びの根株から出て、いのちの実を結ぶという預言です。)
では、その若枝、とは、どのような方なのでしょう?二つのことが、示されています。一つは、「その方の上に主の霊がとどまる>ということです。もう一つは、「正義をもってさばき、公正をもって判決を下す」ということです。一つ目のことは、2節に記されています。2節<その上に主の霊がとどまる。>それは、どのような霊であるのかが、2行目から、教えられています。<それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。>
若枝とは、イエス・キリストのことです。人として来られたイエス様は、バプテスマをお受けになりました。すると、主の霊が、鳩のように、イエス様の上に、降って来られたのです。預言の成就でした。イエス・キリストを信じた私たちも、賜物として、同じ“主の霊”を受けました。知恵と、悟りの霊、思慮と、力の霊、主を恐れる、知識の霊が、私たちのうちにもおられるのです。
次に、二つ目です。若枝とは、どのような方なのか?3節から4節前半です。主を恐れることを喜びとし、「正義をもってさばき、公正をもって判決を下す」と、預言されています。:3~4、2行目(読む)<その目の見るところ><その耳の聞くところ>というのは、外見の印象や、偏見、誤った情報などのことでしょう。この方は、そのようなことによって、さばき、判決を下されません。正義と、公正をもって、(その人の社会的な立場や、財産のあるなしに、惑わされることなく)さばき、判決を下されるのです。
今の、私たちの社会は、どうでしょうか?どのように、さばきがなされ、判決が下されているでしょうか?冤罪、根拠のない噂や、汚名を着せられることもありますね。しかし、その日になると、若枝は(とこしえの王は)、正義をもってさばき、公正をもって判決を下されるのです。
判決を下されるだけではありません。4節の後半<口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。>つまり、その方は、ことばによって、地を打ち、悪しき者を殺されるのです。:5(読む)腰の帯、胴の帯というのは、勇者のイメージです。若枝は、正義と、真実の帯をしめ、勇者のように、恐れることなく、地を打ち、負けることなく、悪しき者を殺されるのです。
ダビデの子、若枝とは、イエス・キリストです。ルカの福音書を開いてみましょう。1:30~33(読む)このように“ダビデの子から出る若枝”とは、イエス様のことだったのです。イエス様は、とこしえにヤコブの家(つまり、神の民)を治め、その(王としての)ご支配に、終わりはありません。そのご支配(神の国)には、とこしえに平和があります。