説教全文

ヘブル人への手紙7章1節~15節 「メルキゼデクに倣われたイエス」

 今日は、メルキゼデクについてです。固い食物ですね。鈍くなっているのであれば、聞くことは困難です。しかし、私達は、キリストについての初歩の教えを後)にして、成熟を目指して進みましょう。
 6章20節をご覧ください。「イエスは・・・メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです」とあります。メルキゼデクの例に倣って、ということ、とこしえに大祭司となられた、ということ、この二つを説明します。
 まず、とこしえに大祭司となられた、ということです。それは、どういうことなのか?7章24、25節(読む)祭司というのは、神様に近づく人々を、とりなすために、立てられました。イエス様は、とこしえに大祭司となられた、つまり、イエス様は、神様に近づく人々を、完全に救うことがおできになるのです。
 では、もう一つ、6章の20節、メルキゼデクの例に倣って、ということです。イエス様より、前の祭司達は、メルキゼデクに倣っては、いませんでした。律法によって、レビ族に、祭司職が与えられたのです。レビの子らの系図に、つながっている者が、祭司職を受けました。しかし、その祭司職によっては、神様に近づく人々を、完全には救うことができなかったのです。
 つまり、良心をきよめることも、死んだ行いから離れさせることも、生ける神に仕える者にすることも、できませんでした。そのような意味で、律法は、何も全うしませんでした。レビ族の祭司職は、弱く、無益だったのです。ですから、廃止されました。こんにちの教会には、レビ族の祭司職はありません。
 廃止され、もっと、すぐれた希望が、導き入れられました。どのような希望ですか?レビ族ではない、メルキゼデクの例に倣って、大祭司となられたイエス・キリストです。イエス様こそ、ご自分によって、神様に近づく人々を、完全に(永遠に)救うことが、おできになるのです。以上が、7章の中心となるメッセージです。
 皆さんの中に、「そのような大祭司こそ、私には必要なお方だ」という人はいるでしょうか?あらためて、7章の25節を読みます。<したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。>すでに、救われている人もいるでしょう。すでに、救われている人は、この確信を持ち続けましょう。イエス様は、完全に救ってくださいます。私達の良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、私達を、生ける神に仕える者にしてくださるのです。
 それでは、今日の箇所を、順に見ていきましょう。まず、メルキゼデクとは、どのような祭司であったのか、ということです。1節から3節です。サレムの王であり、いと高き神の祭司でした。サレムは、当時あった都市国家だと言われています。ですから、歴史上の人物です。メルキゼデクは、王であり、祭司でした。
 2節、メルキゼデクは、義の王、平和の王でした。3節、 メルキゼデクには、系図がありません。この系図がないというのは、レビ族の祭司には系図があるけれども、メルキゼデクにはない、ということです。レビ族の祭司は、系図がなければ、祭司にはなれませんでした。ですから、祭司は皆、系図をさかのぼると、(誰まで?)アロンまで、さらにレビまで、つながっていたのです。アブラハムから始めると、アブラハム、イサク、ヤコブ、レビ・・・レビの子孫が、アロンです。アロンと、モーセは兄弟ですね。モーセが、律法を受け取りました。
 一方、メルキゼデクは、祭司でありながら、系図がありません。聖書に記されていません。系図がないので、父も、母も、誰なのかが分からない、生涯の初めも、いのちの終わりも、いつなのかが分からないのです。これは、メルキゼデクの紹介ですが、イエス様が倣われたので、このような少し不思議な表現になっています。
 では、次の(3節です)<神の子に似た者とされて>というのは、どういう意味でしょう?6節をご覧ください。後半に<アブラハムから十分の一を受け取り、約束を受けたアブラハムを祝福しました>とあります。メルキゼデクは、約束を受けたアブラハムを祝福しました。約束、アブラハムは、どのような約束を受けたのでしょう。創世記の12章の1節から3節に記されています。:1~3(読む)このようにアブラム(のちのアブラハム)は、祝福の約束を受けました。主からです。そのアブラムを、祝福したのがメルキゼデクだったのです。14章、:17~20(読む)メルキゼデクは、このように約束を受けたアブラムを、祝福しました。ですから、“神の子に似た者とされた”と言われているのです。
 今日の箇所に戻りましょう。7章の1節から3節です。この一つ一つに、イエス様は、倣われました。1節、イエス様は、まことの祭司、まことの王となられました。2節、イエス様は、永遠に義の王、平和の王となられました。3節、イエス様は、神の御子です。神ご自身ですから、系図はありません。イエス様は、永遠に、完全な、大祭司であられるのです。
 続いて、4節です。<さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。>“考えてみなさい”と、命じられているので、考えてみましょう。4節から10節まで、です。ここで、教えられているのは、メルキゼデクの偉大さです。要約するならば、族長であるアブラハムよりもすぐれていた、また、アブラハムの子孫で、のちに、祭司職を受ける“レビ族”よりも、すぐれていた、ということです。
 では、4節から見てみましょう。:4(読む)“族長であるアブラハムでさえ”とあります。まず、私達は、“アブラハムの偉大さ”を、知らなければなりません。アブラハムは、どれほど偉大だったのか?族長であるということ、アブラハムは、のちのレビ族を含めた、イスラエル民族の“長”です。先ほど、創世記を開いて確認しました。あのような約束を受けた“族長”です。主ご自身が言われました。「あなたの名を大いなるものとする。」ですから、アブラハムは偉大です。
 また、そのアブラハムが、メルキゼデクに、十分の一を与えました。つまり、アブラハムは、メルキゼデクを、いと高き神の祭司と認めていたのです。:5~7(読む)ですから、メルキゼデクと、アブラハム、よりすぐれているのはどちらですか?メルキゼデクです。
 :8(読む)一方、“死ぬべき人たち”というのは、レビ族の祭司達のことです。他方、“生きていると証しされている人”というのは、メルキゼデクのことです。イエス様が倣われたので、イエス・キリストの型(象徴)として、メルキゼデクは、生きているのです。:9、10(読む)レビは、まだ父の腰の中にいた、つまり、生まれてはいませんでした。しかし、アブラハムは、主から約束を受けていました。「わたしはあなたを大いなる国民とし・・・」この約束において、レビ、そしてレビ族は、まだ生まれてはいませんでしたが、父・アブラハムの腰の中にいたのです。
 ですから、レビでさえ、十分の一を納めました。誰に、ですか?メルキゼデクに、です。以上、私達は、“メルキゼデクの偉大さ”を、考えて来ました。メルキゼデクは、族長であるアブラハムよりもすぐれていた、また、アブラハムの子孫で、のちに、祭司職を受ける“レビ族”よりも、すぐれていた、ということです。
 では、次です。それでは、なぜイエス様は、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのでしょう?レビ族の祭司職によっては、完全さに、到達できなかったからです。:11(読む)完全さに到達できなかったので、別の祭司が立てられたのです。12節<祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません>民は、祭司職に基づいて、律法を与えられたからです。
 13節<私たちがこれまで語ってきた方は>とあります。どなたですか?イエス様ですね。イエス様は、<祭壇に仕える者が出たことのない>つまり、レビ族ではない、<別の部族に属しておられます。>イエス様は、どの部族から出られましたか?ユダ族です。:14(読む)ユダ族について、律法を受け取ったモーセは、祭司に関することを何も述べていません。
 ですから、何が、ますます明らかになるのでしょう?:15(読む)何が、明らかになるのでしょう?律法も変わった、ということです。イエス様が、メルキゼデクと同じような、レビ族とは、別の、祭司となられた、ということは、律法も変わった、ということが明らかになるのです。モーセの律法、旧約の律法が、変わったことは明らかです。では、どのように変わったのか?次回、学ぶことにしましょう。
 ここまでを、まとめます。民は、レビ族の祭司職によっては、完全さに到達することはできませんでした。レビ族の祭司職は、神様に近づく人々を、完全に救うことはできなかったのです。ですから、イエス様は、レビ族ではない、ユダ族から出られて、レビ族の祭司ではないメルキゼデクに倣って、また、族長のアブラハムよりもすぐれたメルキゼデクに倣って、とこしえの大祭司となられたのです。<したがって>、最後に、7章25節を、もう一度読みます。
 祈りましょう。神様に近づきましょう。あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきましょう。主は、イエス・キリストの御名を通して近づく私達を、完全に救ってくださいます。