イザヤ書11章1節~12章6節
「インマヌエルの四説教(4)」

 では、1節から5節です。この1節から5節で、預言されていることは、「主はこのような人物に、王位を、お与えになる」ということです。1節をご覧ください。主が、王位を、お与えになる方は、<エッサイの根株から>、つまり、“ダビデの子から出る”という預言です。エッサイというのは、ダビデの父親の名前です。その根株から、(根株というのは、木の切り株のことですが)なぜ、そのような根株にたとえられているのでしょう?
 ダビデの王国が、根株のようになってしまうからです。当時、ダビデの王国は、すでに、イスラエルとユダとに分裂しており、イスラエルはアッシリアに、ユダはバビロンに滅ぼされます。森のようであったダビデの王国は、他の国々に切り倒されて、わずかに残った切り株のようになってしまうのです。ですから、根株というのは、滅びの象徴でもあります。しかしその根株から、新しい芽が生え、若い枝が出て、実を結ぶというのです。(滅びの根株から出て、いのちの実を結ぶという預言です。)
 では、その若枝、とは、どのような方なのでしょう?二つのことが、示されています。一つは、「その方の上に主の霊がとどまる>ということです。もう一つは、「正義をもってさばき、公正をもって判決を下す」ということです。一つ目のことは、2節に記されています。2節<その上に主の霊がとどまる。>それは、どのような霊であるのかが、2行目から、教えられています。<それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。>
 若枝とは、イエス・キリストのことです。人として来られたイエス様は、バプテスマをお受けになりました。すると、主の霊が、鳩のように、イエス様の上に、降って来られたのです。預言の成就でした。イエス・キリストを信じた私たちも、賜物として、同じ“主の霊”を受けました。知恵と、悟りの霊、思慮と、力の霊、主を恐れる、知識の霊が、私たちのうちにもおられるのです。
 次に、二つ目です。若枝とは、どのような方なのか?3節から4節前半です。主を恐れることを喜びとし、「正義をもってさばき、公正をもって判決を下す」と、預言されています。:3~4、2行目(読む)<その目の見るところ><その耳の聞くところ>というのは、外見の印象や、偏見、誤った情報などのことでしょう。この方は、そのようなことによって、さばき、判決を下されません。正義と、公正をもって、(その人の社会的な立場や、財産のあるなしに、惑わされることなく)さばき、判決を下されるのです。
 今の、私たちの社会は、どうでしょうか?どのように、さばきがなされ、判決が下されているでしょうか?冤罪、根拠のない噂や、汚名を着せられることもありますね。しかし、その日になると、若枝は(とこしえの王は)、正義をもってさばき、公正をもって判決を下されるのです。
 判決を下されるだけではありません。4節の後半<口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。>つまり、その方は、ことばによって、地を打ち、悪しき者を殺されるのです。:5(読む)腰の帯、胴の帯というのは、勇者のイメージです。若枝は、正義と、真実の帯をしめ、勇者のように、恐れることなく、地を打ち、負けることなく、悪しき者を殺されるのです。
 ダビデの子、若枝とは、イエス・キリストです。ルカの福音書を開いてみましょう。1:30~33(読む)このように“ダビデの子から出る若枝”とは、イエス様のことだったのです。イエス様は、とこしえにヤコブの家(つまり、神の民)を治め、その(王としての)ご支配に、終わりはありません。そのご支配(神の国)には、とこしえに平和があります。
 イザヤ書の11章にもどりましょう。6節から9節をご覧ください。このように、イエス様のご支配によって、害を加えたり、滅ぼしたりすることが、一切、なくなります。神の国では、繰り返されているように「ともにいる」ようになり、また自然も新しく変えられます。7節をご覧ください。このように、雌牛、熊、獅子なども、ともにいます。また、ともにいるだけではなく、新しく変えられ、草食になるようです。
 :9(読む) <わたしの聖なる山>というのは、エルサレム(シオン)のことでした。しかし、その日になると、全地が、主の山(新しいエルサレム)となります。そして、主の聖さに、一致するようになるのです。そのどこにおいても、害が加えられたり、滅ぼされたりすることがなくなります(熊による被害も、熊が駆除されるということもなくなります)。なぜでしょう?主を知ることが、全地に満ちるからです。主との個人的で、親しい交わりによって、主を知るということが、全地に満ちるからです。私たちは、その日を、待ち望んでいます。ますます、ともに、主を知り続けましょう。
 次に、10節から16節です。ここでは、どのようなことが預言されているのか?なるべく短くまとめるならば、このようになるでしょう。「その日、王であられるイエス様は、世界中からご自分の民を集められ、とこしえに治められる。」ということです。そのように全体を理解した上で、10節から見てみましょう。
 :10(読む)その日のなると、エッサイの根は、立ちます。エッサイの根というのは、王であられるイエス様のことです。国々は、その王を求めます。そして、その王のとどまるところは“神の栄光”に輝くのです。
 エッサイの根、それは、“ダビデの子”を指しています。では、なぜ、“ダビデの”ではなく、ここでは、(1節でもそうでしたが、)<エッサイの>なのでしょう?ダビデの父親・エッサイは、羊飼いでした。羊飼いというのは、経済的には不安定で、貧しく、社会的には、軽んじられ、低く劣った者とされていました。ですから、<エッサイの>という預言は、「とこしえの王は、貧しさから出て、軽蔑から立つ」ということを示しているのです。
 <根>も同じです。「目立たない、みすぼらしい」ということが強調されています。私たちは、知っています。イエス様は、どのようにお生まれになりましたか?この預言が成就するために、“エッサイの根”として、お生まれになったのです。イエス様を産んだマリアが、布にくるんで寝かせたのは、飼葉桶でした。(飼葉桶というのは、家畜のエサを入れる場所です。)八日が満ちて、イエス様に、割礼を施す日となりました。両親は、「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」という主の律法に従って、いけにえを献げました。なぜ、「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」だったのか?それは、羊を買う、経済的な余裕がなかったからです。
 また、イエス様は、ヘロデ王の時代に、お生まれになりました。そのヘロデ王が、イエス様を探し出して、殺そうとしたのです。ヨセフは、イエス様と、母マリアを連れてエジプトに逃れ、のちに、戻ってから住んだのは、どこですか?ナザレという町でした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか(いや出るはずがない)」と言われていた町です。ある資料によると、「100人に満たない、ほとんど知られていない、貧しい村だった」と言われています。イエス様は、貧しくなられました。なぜでしょう?預言を成就し、私たちを豊かにするためです。私たちは豊かです。なぜなら、すでに神の民とされており、ここに預言されている通りの“神の国”に、入ることになるからです。
 11節です。<その日、主は再び御手を伸ば>されます。再びですから、二度目です。一度目は、モーセの時代です。主は、エジプトから、ご自分の民を救われました。そして、二度目、その日、主は、再び、御手を伸ばされます。その日には、エジプトからだけではなく、全世界からです。<アッシリア、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シンアル、ハマテ、海の島々に>つまり、全世界からです。そのことは、12節でも、繰り返されています。イスラエル、ユダというのは、ここでは、神の民のことです。主が“終わりの日”と定められた“その日”に、主は、地の隅々から、神の民を集められるのです。今日の礼拝にも、主は私たちを集めてくださいました。毎週集めてくださり、そして、その日には、私たちをすべての神の民とともに集めてくださるのです。
 :13(読む)エフライムも、ユダも神の民です。ですから、その日、神の民と、神の民の“ねたみ”と、“敵意”は無くなるということです。こんにちの教会の“最も大きな問題”は、何でしょう?同じ教会の兄弟・姉妹同士で、また地域教会と、地域教会とで、或いはキリスト教団体と団体との間で、最大の問題は何でしょう?それは、ねたみと、敵意です。皆さんは、どうですか?主にある兄弟姉妹を、ねたみ、敵視している、ということはありませんか?そのような罪を、主に告白し、赦され、きよめられても、また、ねたみ、敵視してしまうということはないでしょうか?私たちは、そのたびに悔い改め、終わりの日を、待ち望みましょう。その日になれば、神の民の間から、ねたみと敵意は、完全に消え去ります。
 14(読む)この預言は、文字通りでは、ないでしょう。主の民が、文字通り、このような人々を侵略するということはありません。これは、神の王国の広がりを示しています。その日までは、様々な国々がありますが、終わりの日には、神の国だけが残るということです。:15、16(読む)一度目は、モーセの時代に、エジプトからでした(主は、エジプトから、救われました)。しかし、二度目、その日には、エジプトからもアッシリアからも、つまり全世界からということです。
 主は、ご自分の血によって、神の民を買い取られました。その血を信じて、滅びずに残った(残された)民を、その日には、全世界から集められるのです。15節の4行目には、<それを打って七つの水無し川とし>とあります。この七という数字は、主のお働きが、完璧で、完全であることを表しています。
 私たちは、このような日を、待ち望んでいるのです。ですから、主に感謝しましょう。主を、ほめ歌いましょう。神の国では、主へのほめ歌が、大きな声で、喜び歌われているからです。12章を朗読します。その日、それは、救いの完成の日です。私たちは、そのような<その日>を、感謝し、喜んでいます。ですから、これを、全地に、知らせましょう。