ルカの福音書24章13節~32節
「目が開かれイエスだと分かった」

 主は、よみがえられました。今年は、この24章の13節から32節のみことばによって、復活の主が、どのようなお方であるのかを、教えていただきましょう。
 13節をご覧ください。<弟子たちのうちの二人>とあります。イエス様の弟子たちです。この二人の弟子たちは、よみがえられたイエス様が、分かりませんでした。16節です。このような二人の弟子が、目が開かれます。31節をご覧ください。<すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かった>のです。
 私たちの目は(心の目は)どうでしょう?イエス様が、分からないほど、さえぎられていないでしょうか?心の目は開かれ、よみがえって共におられるイエス様を、イエス様だと分かっているでしょうか?二人の弟子たちは、肉眼では見ていましたが、イエス様であることが、分かりませんでした。弟子であったにもかかわらずです。しかし、目が開かれると、イエス様だと分かったのです。私たちも、「心の目を開いていただきたい」と願います。「よみがえって、私たちと共におられるイエス様を、イエス様だと分かりたい」と願います。
 では、16節から31節までの間に、どのようなことがあったのでしょう?まず、なぜ、分からなかったのか、ということです。なぜでしょう?弟子たち二人の心が、鈍かったからです。イエス様は、言われました。:25、26(読む)これが、二人の弟子たちが、分からなかった原因です。心が鈍くて、(聖書に書いてある)預言者たちの言ったことすべてを信じられなかったからです。
 知らなかったからではありません。知っていました。エルサレムで、起こったことも、聖書も、知っていました。19節から24節を読むと、二人の弟子たちが、エルサレムで起こったことを、よく知っていたことが分かります。(そうですね。これほど、よく知っていました。)26節のみことばからは、二人の弟子たちが、「キリストは必ず(十字架につけられ、死刑にされる)そのような苦しみを受け、それから、その栄光に入る(よみがえり、イスラエルを解放される)」という預言も、確かに知っていたことが分かります。
 このように知っていたのです。では、なぜ、分からなかったのでしょう?それは、弟子たち二人の心が鈍くて、信じられなかったからです。ですから、エルサレムから離れました。ですから、“望み”は、過去のものとなってしまったのです。21節の前半<私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。>かけていましたが、今は、その望みを失ってしまったのです。
 私たちの心はどうでしょうか?もし、心が鈍ければ、“みことばの通りに起こったこと”、“起こっていること”を、知ったとしても、また、どれほど聖書を学び、知ったとしても、信じられないのです。心の目は、さえぎられていて、イエス様が、分からないからです。分からないだけではありません。イエス様は、そのような私たちを、「ああ、愚かな者」と嘆いておられるのです。二人の弟子たちは、愚かな者たちでした。
 では、なぜ、弟子たちの目は、開かれたのでしょう?
 まず、イエス様ご自身が、近づいて来られたからです。:15(読む)このように、イエス様ご自身が、近づいて来て、愚かな弟子たちと、ともに歩き始められました。また、イエス様ご自身が、聖書を説き明かされたからです。:27(読む)イエス様は、25節で「ああ、愚かな者たち」と嘆かれました。嘆いて、どうされたのでしょう?ご自分について、つまりキリストについて、聖書全体から説き明かされました。そして、二人の弟子たちの目が開かれたのは、イエス様が、パンを裂かれたからです。:30、31(読む)このパンは、食事のパンでもあり、聖餐式のパンでもあります。このようにイエス様が、共に食卓についてくださいました。その食卓で、二人のために、聖餐式を執り行ってくださったのです。すると、弟子たちの目が開かれ、イエス様だと分かりました。このようなお方が、イエス様です。
 目が開かれた二人は、このように話し合いました。:32(読む)私たちも、心の目が開かれると、分かります。私たちも、聖書朗読と、説教の間に、自分たちの心が、内で燃えるという経験をしますね。それは、どうしてか?それは、奉仕者を通して、イエス様ご自身が、説き明かされているからです。以上のように、弟子たちの目が開かれたのでは、イエス様ご自身が、近づいて来られ、“ご自分について、聖書全体に書いてあること”を、説き明かされ、共に食卓に着き、パンを裂かれたからです。私たちの目が開かれ、イエス様だと分るのは、そのような、ただ主の恵みによるのです。
 それでも、気になることがあります。それは、イエス様の、このようなお姿です。17節<イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話はなんのことですか。>さらに、19節で「どんなことですか」と言われました。ご自分が、その“イエス・キリストご自身”であられることを、明かされません。
 ですから、二人は答えます。19節から24節です。このように答えた二人に、イエス様は、言われました。「ああ、愚かな者たち。」その愚かな者たちに、イエス様は、聖書を説き明かされます。しかし、二人の目は、まだ開かれません。さえぎられていて、分からないままです。それにもかかわらず、28節を見ると、イエス様は、そのようなで弟子たちを置いて、もっと先まで、行きそうな様子でした。そして、31節で、そのお姿は、見えなくなります。31節<すると彼らの目が開かれ、イエスだと分ったが、その姿は見えなくなった。>イエス様が、もちろん、意地悪をなさることはありません。ありませんが、今、挙げたようなお姿に、戸惑う人もいると思います。
 では、二人の弟子たちは、どうしたでしょう?イエス様に、「ああ、愚か者たち」と言われて、どうしましたか?まだ、二人の目は、開かれていないにもかかわらず、聖書を説き明かされたら、もっと先まで行きそうな様子であったイエス様に対して、どうしたでしょう?二人は、イエス様に、「一緒に」と、強く勧めたのです。:28~31(読む)その姿は見えなくなったので、28節の「もっと先まで行きそうな様子」は、その通りでした。確かに、イエス様は、もっと先まで、行こうとされたのです。しかし、二人は、「一緒に」と、強く勧めました。強く勧めたので、イエス様は、一緒に食卓に着いてくださり、二人の目は開かれ、イエス様だと分ったのです。
 このことから、教えられることがあります。「よみがえられた主が、心の目を開いてくださるのは、どのような弟子なのか」ということです。どのような弟子ですか?「強く勧める弟子」つまり、強く願う弟子」です。“心が鈍くて、信じられない”、そのような“愚かな者”であっても、イエス様に、「一緒に」と、強く願う弟子です。“聖書の解き明かしに、心が内で燃えた”のであれば、「ともに」と、イエス様に強く求める弟子です。イエス様が、行かれようとされているにもかかわらず、それでも「一緒に」と、強く願い求める弟子です。イエス様は、そのような弟子たちの心の目を、イエス様だと分かるように、開けてくださるのです。必要なのは、「一緒に」と、イエス様に、強く勧める<心>です。
 では、どうすることが、私たちにとって「一緒にお泊りください」と言って、強く勧めることになるのでしょう?具体的に、どうすれば良いのか分からないのは、その心が、まだ強くないからです。その心があれば、分かるはずです。その心があれば、イエス様は、一緒にいてくださり、私たちの目も、イエス様を、イエス様だと分かるように、開けてくださるのです。