私たちの教会全体にも、主への大きな恐れが生じることを願います。先週は、31節までを学びました。教会は、最高法院(サンヘドリン)の迫害を受けました。ペテロとヨハネが、捕えられ、留置され、その翌日には、尋問を受け、「イエスの名によって語ることも、教えることも、一切してはならない」と脅されました。さらに、脅され、釈放されたのです。しかし、教会は、そのことを、みことばの成就として理解しました。そして、「主のみことばを大胆に語らせてください」と祈ったのです。主は、その通りに、してくださいました。:31(読む)このように、教会は、迫害を受けながら、聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り続けたのです。
<さて>今日の箇所、32節です。32節からは、外に対してではなく、内はどうであったのかが、記されています。外からは、迫害がありましたが、教会は、どのようであったのでしょう?聖霊による交わりがありました。同時に、サタンの試みもあったのです。そして、神様を欺いた夫婦への“主のさばき”がありました。私たちも、神様を恐れましょう。サタンに心を奪われて、聖霊を欺くことがないようにと、願いましょう。
では、:32(読む)<さて、信じた大勢の人々は>とあります。このときのエルサレム教会は、何人ぐらいだったのでしょう?4章の4節では、「男の数が五千人ほどに」なっていましたので、それぐらいの規模になっていました。(32節にもどります)信じた大勢の人々は<心と思いを一つにして>とあります。教会は、心と思いを一つにしていたのです。何によって、でしょう?33節から、考えてみてください。<主イエスの復活>とあります。主イエスの復活、つまり、「復活された主イエス・キリスト」への心と思いによって、一つとなっていたのです。これが、教会です。私たちは、何によって、一つとなるのでしょう?復活された主イエス・キリストへの心と思いによって、一つとなるのです。
主への心と思いによって、信じた人々は、どうしましたか?32節です。だれ一人、自分が所有しているものを「自分のもの」と言わず、すべてを共有にしていました。また、使徒たちは、主への心と思いによって、何をしましたか?33節です。使徒たちは、主イエスの復活を、大きな力をもって証ししました。このように教会が、その交わりによって、また言葉によって、“主イエスの復活を証し”したのです。「主イエスの復活を証しする」ということで、“一つ”でした。そのような教会に(全員の上に)、大きな恵みがあったのです。
では、もう少し、32節のことを学んでみましょう。このような姿は、すでに2章にも記されていました。44節、45節です。このように、一切の物を共有していました。それは、このような意味で、です。皆それぞれ、自分の財産や、所有しているものがありました。ありましたが、教会に経済的な必要が生じると、自ら進んで売り、喜んで分配していたのです。
4章の32節でも、同じ姿が、記されています。32節<だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず>とあります。なぜでしょう?“主のもの”だと信じていたので、“自分のもの”と言わなかったのです。ですから、すべてを共有していました。言い換えるならば、すべてを“主のもの”としていたのです。実際には、皆それぞれ、自分の財産や、所有していたものがありました。ありましたが、聖霊様が、「分け与えなさい」とおっしゃれば、みこころに従って、分配したのです。34節、35節を読みます。なぜ、エルサレム教会の交わりは、このようであったのでしょう?33節に記されているように、“主イエスの復活”を信じていたからです。また、“自分たちの復活”を、信じていたからです。“御父が、御子を復活させた”ということを、私たちが信じるなら、主は、私たちを復活させてくださいます。
イエス様は、復活に関して、このようなことを、教えてくださいました。マタイの福音書25章です。31節から46節までです。エルサレム教会の中には、一人も乏しい者がいませんでした。乏しい兄弟、姉妹がいれば、その必要に応じて、教会が、分け与えていたからです。主イエスに、差上げていたからです。そのようにして、教会は、永遠のいのちに入る希望を、証ししました。復活の希望を、証ししたのです。
(今日の箇所にもどりましょう)使徒の働きの4章です。36節、37節では、その模範として、バルナバのことが記されています。<足もとに置いた>というのは、慣用的な表現で、「法的な権限の譲渡」を表しているのだそうです。ですから、その代金の分配を、使徒たちに任せたということになります。