ヨハネの福音書20章

「よみがえられたイエス」

 イエス・キリストは、よみがえられました。よみがえられただけではなく、私たち一人一人に現れてくださいました。私たちは、そのような主を喜んでいます。復活された主は、どのようなお方であられるのか?今日の聖書箇所から、ともに教えられましょう。
 まず、28節、29節をご覧ください。:28、29(読む)このようにイエス様は、「見ないで信じる人たちは幸いです」と言われました。皆さん、どうでしょう?「見ないで信じる人たちは幸いだ」と確信していますか?むしろ逆で、“「見たから信じた」という方が、幸いではないか”と思っていませんか?イエス様を見ないで、「私の主、私の神」と信じる人たちは、幸いです。
 今日の聖書箇所全体を読むと、「見ないで信じる人たちは幸いです」ということが、一貫して教えられていることが分かります。まず、1節から10節です。ここでは、マグダラのマリアと、二人の弟子たちが、どのようにお墓を見たのかが記されています。:8~10(読む)ここでは、“見て、信じた”とあります。
 次の、11節から18節です。ここには、マグダラのマリアが、どのようにして、“主を見た”のかが記されています。18節です。<マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い>とあります。
 また、19節から23節も同じです。20節だけを読みます。<こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ>脇腹というのは、兵士が槍で突き刺した脇腹のことです。弟子たちは、このように、見たから信じて、喜びました。
 そして、24節から29節です。トマスです。トマスは、このように言いました。:25(読む)“見たら”から、さらに、“指を入れ、手を入れたら”信じるということでしょう。聖書は、このように、“見たから”信じた人々を記しながら、最後に、イエス様が言われたことを教えています。それが、29節です。イエス様は、言われました。「わたしを、見ないで信じる人たちは、幸いです。」
 なぜでしょう?それには、二つの理由があります。一つ目は、見て、信じた場合、聖書から、そのことを理解しなければ、再び、帰って行くことになるからです。それは、8節から10節で、教えられています。
 弟子たちは、見て、信じました。お墓も、取りのけられていた石も、置いてあった亜麻布も、お墓の中も、見て、信じたのです。しかし、聖書を理解していなかったので、どうしましたか?10節には、<それで、弟子たちは再び自分のところに帰って行った>とあります。
 自分のところとは、どこでしょう?ユダヤ人を恐れて、戸に鍵がかけられていたところでしょう。つまり、再び、“自分の恐れ”に、帰って行ったのです。皆さん、ですから、見ないで信じる人たちは、幸いです。イエス様を見ないで、何ですか?聖書です。見ないで、聖書を理解して、信じる人たちは、幸いです。
 それは、この福音書の結論でもあります。:30、31(読む)“見たから、信じた”のではない、「これらのことが書かれた“聖書”を理解したから、信じた」という人たちこそ、幸いです。ここには、この書が書かれた目的が教えられています。皆さんは、どのように聖書を、読んでいますか?この目的に沿って、読んでいるでしょうか?聖書を読むことで、ますますイエス様を知り、信じ、御霊のいのちが流れ出ている、ということであれば、書かれた目的に従って読んでいる、ということになります。
 もう一つの理由は、(なぜ、見ないで信じる人たちは幸いなのか?)その理由は、「見たから、信じた」という場合、見間違いをしている可能性があるからです。マグダラのマリアです。マリアは、よみがえられたイエス様を、見ました。見ましたが、誰だと思いましたか?お墓がある園の管理人だと思ったのです。:15(読む)このように、マリアは、イエス様を見ていましたが、(見ていただけではなく、会話まで交わしていますが)園の管理人だと思っていたのです。ですから、見ないで信じる人たちは、幸いです。
 日常生活でも同じです。私たちは様々な人と出会います。また、色々なことを経験します。その一つ一つを、聖書によって理解する必要がある、ということです。
 では、なぜ、イエス様は、マグダラのマリアに、見せてくださったのでしょう?また、弟子たちにも、です。さらに、トマスにも、です。なぜでしょう?主の熱心さ、ゆえです。27節をご覧ください。:27(読む) 「・・・信じない者ではなく、信じる者になりなさい」との熱心さゆえに、見せてくださったのです。「見なければ決して信じない」という私たちを、主はあわれんでくださり、「信じる者になりなさい」と、ご自身を示してくださったのです。
 こんにち、私たちは、心の目で、よみがえられたイエス様を見ます。見たならば、聖書です。見たことで高慢になり、聖書から離れてしまうのではなく、見たことを、聖書から理解するように努めましょう!以上が、全体から、教えられることです。
 もう一つ、全体から、教えられることがあります。“週の初めの日に、一緒にいる”、それが、どういうことなのかが分かります。週の初めの日というのは、日曜日のことです。日曜日に、弟子たちが一緒にいるところ、そこに、イエス様はおられます。
 トマスを見てみましょう。24節です。<十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。>一緒にいなかったので、主を、見ることができませんでした。
 しかし、八日後、つまり、次の“週の初めの日”は、一緒にいました。26節です。<八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。>一緒にいたので、イエス様を見ることができ、さらに、28節では、信仰告白をすることができたのです。
 これは、こんにちの主日礼拝と、理解することができます。“週の初めの日”である日曜日に、私たちが集まり、一緒にお献げする礼拝、その真ん中に、イエス様は、立っておられるのです。今も、です。
 トマスは、先週は、弟子たちと一緒にいませんでした。では、そのようなトマスに、イエス様は、ご自身を示されたのでしょうか?一緒にいた弟子たちのところにも、一緒にはいなかったトマスところにも、同じように、来てくださいましたか?いいえ、ですから、私たちは、日曜日・主の日に一緒にいるのです。
 マグダラのマリヤも、です。マリアは、園で、イエス様にお会いしました。そして、イエス様に、すがりついたのです。そのようなマリアに、イエス様は、「わたしの兄弟たちのところに行きなさい」と、命じられました。:17、18(読む)皆さんの中にも、教会で、ではなく、個人的に、イエス様を知ったという人がいるでしょう。そのイエス様が、主の弟子たちのところに(教会に)行くことを、勧めておられるのです。
 では、なぜ、それほどまでに教会は、大切なのでしょうか?教会には、これほどの権能があるからです。自覚しましょう。権能、権限と能力です。22節、23節をご覧ください。:22、23(読む)このあと、イエス様は、天に上げられます。では、弟子たちは、何をしたでしょう?聖霊なる神様を受けるために、一つになって集まっていました。いつも、心を一つにして、祈っていたのです。そのような弟子たちに、あの五旬節の日、聖霊なる神様が臨まれました。そのあとで、弟子たちは、この権能を、実際に用いて行きます。使徒たちを代表して、ペテロが説教をすると、そのことばを受け入れた人々が、罪を赦され、バプテスマを受けたのです。一方、そのことばを受け入れなかった人々の罪は残りました。
 こんにちの教会も、同じです。聖霊なる神様に満たされて、教会が宣べ伝えた福音を、誰かが受け入れるならば、その人の罪は赦されます。受け入れないならば、そのまま残るのです。まとめます。イエス様は、「見ないで信じる人たちは幸いです」と、言われました。私たちも、見たからではなく、聖書を理解して、信じましょう。また、週の初めの日には、一緒に、主を礼拝しましょう。主は、礼拝の真ん中に立ち、この世の平安とは違う、まことの平安を与えてくださいます。遣わされた私たちは、聖霊に満たされ、福音を伝えることで、ある人の罪を赦し、一方、ある人の罪をそのまま残すのです。