エヨハネの手紙第一1:1-1:10

「いのちのことば」

 この手紙で、ヨハネが伝えたいことは、何でしょう?いのちです。永遠のいのちです。:1、2(読む)この手紙には、この手紙を書いた人の名前が、記されていません。伝統的には、使徒ヨハネとされています。この書の名前も「ヨハネの手紙第一」となっていますが、これは聖書そのものではありません。のちに付けられたものです。ですが、ヨハネでしょう。ですから、この説教でもヨハネとして、お話しします。
 あらためて、確認します。この手紙で、ヨハネが伝えていること、それは、いのち(永遠のいのち)です。1節の最後のところをご覧ください。<すなわち、いのちのことばについて。>とあります。ヨハネが、この手紙で記しているのは、“いのちのことば”についてです。いのちのことば、いのちについてのことば、いのちを与えることばです。
 これは、どのようなものなのかが、1節では説明されています。順に、見てみましょう。初めからあったもの、いのちのことばは、初めから、初めに、神様が天と地を創造された、その初めには、すでにあったのです。次に、私たちが聞いたもの、ヨハネたちが聞くことができたのは、2節です。<このいのちが現れました。>とあります。“いのち”が現れたので、ヨハネたちは、その“いのちのことば”を、聞くことができました。  次、自分の目で見たもの、さらに、じっと見つめ、とあります。ヨハネは、“いのちのことば”を知ろうと、じっと見つめました。そして、自分の手で触ったもの、ヨハネは、真っ暗な中で、手探りで見つけるようとして、さわったのです。そのような“いのちのことば”について、ヨハネは、この手紙で伝えています。
 私自身も、そうです。学生時代の私は、心が渇いていました。(カラカラでした。)そのような私に、イエス様は、大きな声で言われたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37-28)聖書のことばです。この手紙を書いたヨハネは、“いのちのことば”を、肉声で、実際に聞きました。私は、違います。聖書のことばによって、聖霊様が、語りかけてくださいました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」飲みたい、と思いました。聖書には、続いて、このようにあります。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」私の心の奥底からも、生ける水の川が、流れ出るようになりました。生ける水、いのちの御霊が、いのちが、流れ出るようになったのです。それで、私も、このように皆さんに、伝えているのです。
 2節、<このいのちが現れました。>このいのちというのは、イエス・キリストです。ですから、ヨハネたちは、じっと見つめ、自分の手でさわることができたのです。この“いのち”は、どなたと、ともにありましたか?<御父とともにあり>、御父というのは、神様のことです。このことばは、神様を、御父とする、つまり、御子でした。御子が、人となって、現れてくださったのです。御子イエス・キリストこそ、永遠のいのちです。
 :3(読む)ヨハネは、自分たちが、見たこと、聞いたことを、伝えました。その目的は、何だったでしょう?あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。交わりというのは、相手と何か共通のものがあって、それを分ち合うことです。ですから、教会だけでなく、様々なところにあります。たとえば、同じ趣味、同じ活動をしている人々には、交わりがあります。或いは、ファンミーティングなどもそうでしょう。アーティストやタレント、スポーツ選手などが、ファンと直接交流するイベントには、交わりがあります。
 しかし、私たちの交わりは、まったく違います。私たちの交わりとは、どのようなものですか?御父また御子イエス・キリストとの交わりです。ですから、私たちは、教会の交わりを、この世の交わりと同じようなものにしてはなりません。私たちの交わりは、主との交わりです。主と交わっている者同士が集まり、そこにできるのが教会の交わりです。
 交わりには、喜びがあります。この世の交わりが活発なのも、そこに喜びがあるからでしょう。しかし、そこには、何がないのですか?いのちがありません。永遠のいのちがないのです。4(読む)私たちの喜びとは、交わりの喜びです。教会の交わりには、喜びが満ちあふれています。この交わりに、ぜひ加わっていただきたいので、私たちは、福音を証しし、伝えているのです。
 皆さんの中には、兄弟姉妹との交わりに、喜びがないという人もいるでしょう。そのよう人は、まず、主との交わりを持ってください。喜びが満ちあふれるまでです。喜びが満ちあふれるまで、主との交わりを持ってください。それから、兄弟姉妹との交わりです。主との交わりに喜びがなければ、兄弟姉妹との交わりを喜ぶことはできません。福音を証しし、伝えることもできないでしょう。
 以上が、今日の前半です。後半では、その主との交わりが、「光の中を歩む」ということばで、表されています。では、5節から10節をご覧ください。ここで伝えられている中心的なことは、「神は光である」ということです。:5(読む)ヨハネたちが、キリストから聞き、私たちに伝えている使信は、「神は光である」ということです。この使信は、“キリストから聞き”とあるように、ヨハネたちが考え出したことではありません。
 では、“神は光である”、“神は光であり、神には闇が全くない”とは、どういうことなのでしょう?今日の箇所から考えてみましょう。“闇”とは、何ですか?罪です。不義です。神様には、罪も、不義も、全くありません。では、光はどうでしょう?“光である”とは、どういうことでしょう?真理であり、真実であり、正しいお方だ、ということです。さらに、罪を告白させ、罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるお方だ、ということです。神様は、そのような意味で、“光”です。
 様は、光であり、神様には、闇が全くありません。ですから、光と、闇が、交わる、ということは、決してありません。決してないのです。しかし、にせ教師がいたようです。にせ教師たちは、光と、闇が、まるで交われるかのように教えていました。ヨハネは、その間違った教えを、ここで三つ挙げ、それぞれを正しています。
 では、まず、第一番目です。まず、挙げられている、誤った教えは、「神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩むことができる。」というものです。皆さんは、この教えが、どのように間違っているか、分かりますか?こんにちのクリスチャンの中にも、同じように考えている人がいます。「神様との交わりはある。あるけれども、闇の中を歩んでしまっている。」という人がいます。どこが間違っていますか?6節には、このように教えられています。:6(読む)なぜなら、光と、闇は、決して交わらないからです。ここで、“歩んでいる”という表現の意味を、知っておく必要があります。歩んでいる、というのは、習慣的に、そのように生活している、ということです。神様と、交わりがある人が、習慣的に罪を犯し、罪を犯しつ続ける生活をする、ということは、決してありません。ないのです。
 しかし、それは、罪を犯さなくなる、ということではありません。:7(読む)私たちは、神様と交わりがあるので、光の中を歩んでいます。光の中を歩んでいるので、互いに交わりを持っています。互いに交わりを持っているので、その交わりを、損なうものが、罪であることを知っています。その罪は、御子イエスの血が、きよめてくださいます(自分の心がけや、努力ではきよめることはできません)。この<きよめてくださいます>は、現在形です。「継続してきよめてくださる」、「きよめ続けてくださる」のです。ですから、“神様と交わりがある人”とは、どのような人か?「習慣的に、罪を犯し続けている人」ではありません。“罪を犯すたびに、御子の血によってきよめていただく”、そのことを、習慣としている人です。
 では、二つ目、:8、9(読む)ヨハネが挙げている、二つ目の間違った考えは、このような考えです。「自分は、神と交わっているので、自分には、罪がない。」これは、誤りです。どのように、間違っていますか?こんにちも、自称クリスチャンの中に、同じようなこと主張する(強く言い張る)人がいます。自分自身を、欺いています。では、神様と交わっている人は、どのように導かれるのでしょう?自分の罪の告白へと導かれます。神様は、真理だからです。真理という光は、私たちの罪を、あばき出します。一つ一つの罪を、です。
 先週も、神様との交わりがあった兄弟姉妹は、自分の罪を告白したはずです。自分が、キリストを、恐れていないこと、自分が、どれほど、互いに従い合おうとしないか、ということ。また、あまりにも主への賛美と、神様への感謝が少ない上に、御霊に満たされることには、ほとんど無関心であること。そのような自分自身の罪を、神様に告白したことでしょう。しかし、それこそが、私たちのうちに真理がある、という証拠なのです。
 9節を、もう一度読みます。:9(読む)<神は真実で正しい方ですから>ということです。神様は、ご自分の「新しい契約」に対して、真実で正しいお方です。その「新しい契約」の一部だけを読みます。(ヘブル8:8-12)<わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・・わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。>神様は、真実で正しいお方です。ですから、契約を守られます。御子イエスの血を信じて、罪を告白するならば、神様は、罪を赦し、刑罰を下されることはありません。さらに、不義、つまり、その罪の悪影響までも、すべて取り除いてくださるのです。
 では、最後、:10(読む)<神のことば>である聖書は、このように教えています。「義人はいない。一人もいない。・・・善を行う者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10-12)子どもにも、すでに罪の性質があるのです(幼児は罪のない天使のような存在ではありません)。或いは、こんにち、このような教えを聞くことがあります。「イエス・キリストを信じて、洗礼を受けたならば、罪を犯すことはない。」「私は、聖霊のバプテスマを受けたので、それからは罪を犯したことがない。」間違っています。神様は、私たちがバプテスマを受けたあとも、私たちの罪を、みことばによって、戒められます。そのようにして主は、私たちが、光の中を歩み続けることができるようにしてくださり、私たちの交わりの喜びを、満ちあふれさせてくださるのです。