ヨハネの手紙第一3章19節~24節
「キリストを信じ、互いに愛し合う」

 19節をご覧ください。まず、問われることは、「私たちは、神の御前に、心安らかでいたいか?」ということです。皆さん、どうでしょう?もし質問が、単に「心安らかでいたいですか?」ということであれば、おそらく、クリスチャンである、なしに関わらず、多くの人々が「心安らかでいたい」と答えるでしょう。しかし、ここでは、“神の御前に”です。
 まず、私たちが、知るべきことがあります。それは、心の安らぎは、神の御前にある、ということです。世にも、世にあるものにも、ありません。心の安らぎは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢には、ないのです。確認しましょう。心の安らぎは、どこにあるのですか?神の御前に、です。
 では、どうしたら、神の御前に、心安らかでいられるのでしょう?19節には、このようにあります。<私たちは自分が真理に属していることを知り>とあります。私たちは、自分が真理に属していることを知れば、神の御前に、心安らかでいられます。私たちは、どちらでしょう?真理に属していますか?それとも、偽りに属していますか?真理に属している、つまり、真理である神から出て、“神の子ども”とされている、そのことを、知っているならば、私たちは、神の御前に、心安らかでいられます。逆に、知らなければ、或いは、真理に属しているという確信がなければ、私たちは、神の御前に、心安らかではいられません。
 では、どうしたら、知ることができるでしょう?19節<そうすることによって>とあります。そうすること、というのは、すぐ前の18節に、勧められていることです。読みます。<子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。>愛することによって、私たちは、自分が真理に属していることを知ることができます。神の子どもとされていることを知るのです。
 3章の1節には、このようなみことばがありました。:1(読む)事実、私たちは神の子どもです。しかし、私たちの中には、このことを知らずに、或いは、確信を持てずに、神の御前に心安らかではない、という人々もいるでしょう。確認します。どうしたら良いですか?愛することによって、です。愛することによって、私たちは、自分が真理に属している、神の子どもとされている、ということを知るのです。  
 今度は、3章の16節から、18節までを読みます。:16~18(読む)たとえ自分の心が責めたとしても、です。:20(読む)自分の心が、自分を責める、ということがあります。大きく2種類の責めです。一つは、「いのちを捨てるべきだったのに、捨てられなかった」という責めです。具体的には、「困っている兄弟を見たのに、あわれみの心を閉ざしてしまった」という責めです。
 皆さんも、そのように自分の心が責めた、ということがあるでしょう。そのような時には、どうしたら良いでしょう?神様は、責めてはおられない、ということを思い出しましょう。たとえ、自分の心が、自分を責めたとしても、です。神様の私たちへの責めは、すべて、イエス様が、十字架の上で代わりに負ってくださいました。ですから、そのことを信じる私たちが、神様から責められることは、決して無いのです。
 イエス様が、どのようなお方であるのかは、ヘブル人への手紙の中で、このように教えられています。<私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。>(4:15)
 20節をご覧ください。<神は私たちの心より大きい方であり>とあります。私たちの主は、私たちの弱さに、同情できないお方ではありません。また、20節の続きには、<主は、すべてをご存じだからです。>主は、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれました。そのような神様が、私たちの主です。ですから、私たちは、安らかでいられるのです。
 次に、もう一つです。もう一つの責めは、このような責めです。「いのちを捨てるべきではない」という責めです。具体的には、「あわれみの心を閉ざすべきだ」という責めです。どういうことでしょう?たとえば、3章の10節です。10節には、このようなみことばがありました。途中まで、読みます。<このことによって、神の子どもと 悪魔の子どもの区別がはっきりします。>このみことばに、心の責めを感じた人はいませんか?「神の子どもと悪魔の子どもと、ここまではっきりと区別して良いのだろうか?」そのような“責め”を、感じた人もいるでしょう。
 二つ目は、そのような種類の責めです。みことばに従おうとする私たちを、私達自身の心が責めることがあります。先ほどの箇所にもどって、考えてみましょう。3章の16節、17節です。みことばに従おうとする時に、私たちを責める声が聞こえて来ます。どこからですか?自分自身の心からです。「いのちを捨てる、そこまで、すべきではない」と責める声が、「困っている兄弟を見ても、あわれみの心を閉ざすべき時もある」と責める声がすることもあるでしょう。しかし、それでも、真理に従う、それによって、私たちは、心安らかでいられます。
 また、従ったあとにも、です。従うまえも、責めるということがありますが、従ったあとも、自分の心が責める、ということがあります。「従って良かったのだろうか」と、しかし、安らかでいましょう。20節をもう一度読みます。:20(読む)私たちの心は小さい、しかし、神様の心は大きい、私たちは一部しか知らない、しかし、神様はすべてをご存じです。そのような神様のみことばに従ったのですから、心安らかでいましょう。
 では、次です。:21、22(読む)。20節では<たとえ自分の心が責めたとしても>でした。21節では<自分の心が責めないなら>とあります。私たちは、このように成長します。以前は、みことばに従おうとする自分を、自分の心が責めていたのです。しかし今は、「同じみことばだけれども、もう責められることはない」と、そのように成長します。責められなければ、私たちは、確信を持って、大胆に祈ることができます。
 ここで、使徒ヨハネは、このように言い切っています。<そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。>(このみことばにも、自分の心が責める人が、いるかもしれませんね。「ここまで、言い切れるのだろうか?」)しかし、イエス様は、言われました。<あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばが あなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。>(ヨハネ15:7)
 私たちは、神様のご命令を守り、神様に喜ばれることを行っています。そうであるならば、いのちを捨てるために、あわれみの心を閉ざさないために、行いと真実をもって愛するために、欲しいものがあれば、何でも求めましょう。求めるものは、何でも、神様からいただくことができます。求めましょう。かなえられます。
 では、23節です。:23(読む)<神の命令>ということばは、前の22節に、すでにありました。22節の後半です<私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。>「神の命令を守る」ことは、「神に喜ばれること」です。
 では、神の命令とは、何でしょう?あらためて、23節を、ご覧ください。それは、「互いに愛し合うこと」です。しかし、それは、単に“愛し合うこと”では、ありません。何を信じ、ですか?<御子イエス・キリストの名を信じ>です。名というのは、その人物全体を意味します。次に、どのように、ですか?<キリストが命じられたとおりに>です。つまり、キリストを信じ、キリストが命じられたとおりに、です。「互いに愛し合いましょう!」さらに、23節です。<キリストの名を信じ>とありますが、どのようなキリストを信じ、ですか?私たちを愛し、私たちのために、いのちを捨ててくださった、キリストを信じ、です。次に、<キリストが命じられたとおりに>とあります。キリストは、「兄弟のために、いのちを捨てるべきだ」と、命じられました。そのとおりに、です。
 16節でした。:16(読む)キリストは、なぜ私たちを愛し、ご自分のいのちを捨ててくださったのでしょう?それは、“神の命令”であり、“神に喜ばれること”だったからです。私たちにとっては、どうでしょうか?“神様の命令”は、どれほどの重さがあるでしょう?同じ、です。愛されている私たちにとっても、同じであるべきです。
 最後、24節には、神の命令を守る者は、どのような者であるのかが示されています。:24(読む)神の命令を守る者は、ここまで近い“神様との交わり”を持っています。この交わりは、分からないということはありません。交わりがあれば、御霊によって分かります。まとめます。神様のご命令を守る者は、1、神様の御前に、心安らかでいられます。2、求めるものを、何でも、神様からいただくことができます。3、神また御霊との親しい交わりを、持っているのです。