使徒の働き2章37節~41節
「赦していただけなければならない罪」

 それでは、37節からです。まず、<人々は>とあります。この人々は、どのような人々だったのでしょう?14節をご覧ください。ペテロは、十一人と、ともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけました。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん」、このように、呼び掛けています。ですから、37節の、この<人々>は、ユダヤ人たちでした。ユダヤ人たちは、<これを聞いて心を刺され>ました。“これ”というのは、ペテロが、14節から36節までで語ったことです。結論は、36節でした。<イスラエルの全家>というのは、“神の民たち皆”のことです。ユダヤ人は、神の民でした。
 ですから、神様は、ユダヤにある、ナザレという村の、イエス様によって、ユダヤ人の間で、力あるわざと、不思議と、しるしを、行われたのです。たとえば、どのようなことを行われたでしょう?目の見えない人たちを見えるようにされ、足の不自由な人たちを歩けるようにされ、ツァラアトに冒された人たちをきよめられ、耳の聞こえない人たちを聞こえるようにされ、死人たちを生き返らせ、貧しい人たちに福音をお伝えになりました。お命じになると、悪霊が、風や水までが、従いました。
 神様は、イエス様が、キリストであられることを、まず、ユダヤ人の間で、証しされたのです。ペテロは、22節で、このように語りました。:22(読む)神様は、ユダヤ人たちに「イエス様がキリストであられること」を証しされました。ユダヤ人たち自身も、そのことを承知していたのです。
 また、神様は、ご自分の民とされたイスラエルに、律法をお与えになりました。律法とは、「モーセ五書」、或いは、旧約聖書を指します。モーセ五書というのは、創世記から申命記までのことです。或いは、旧約聖書全体です。そこには、何が記されていたのでしょう?23節によれば、律法には、“神が定めた計画と、神の予知によって引き渡される”メシア、キリストが来られることが預言されていたのです。
 キリストは、来られました。神様の証しによれば、キリストは、ナザレのイエス様です。そのようなお方を、イスラエルは皆で、十字架につけて殺したのです。しかも、律法を持たない人々の手によって、です。つまり、「神が定めた計画と、神の予知」を知らない人々に殺させたのです。しかし、神様は、イエス様を、よみがえらせました。よみがえらせたのです。そのことは、ダビデの預言によると、どのような意味があるのでしょう?29節から32節です。つまり、神様は、イエス様をよみがえらせ、誓われた通りに、イエス様を、とこしえの王座に就かせた、ということです。イエス・キリストは、とこしえの王です。ですから、イスラエルの全家は、どなたを十字架につけたのでしょう?とこしえの王を、十字架につけたのです。
 さらに、イスラエルの全家が、十字架につけたイエス様は、どのようなお方なのでしょう?33節です。神の右、整理しておきましょう。神の右とは、単に、神様の右側ということではありません。右の座、とは、・名誉の座(エペソ1:21)・力の座(エペソ1:22,マタイ26:64)・また、喜びと、楽しみの座(詩16:11)、を意味しています。神様によって、そのような座に上げられたお方が、イエス様でした。
 そのイエス様が、このとき、ユダヤ人たちが、目にし、耳にした聖霊を注がれたのです。ユダヤ人たちは、もちろん、聖霊を知っていました。ペテロは、1章の16節で、このように言っています。15節、16節を読みます。:15、16(読む)ユダヤ人が、知っていた聖霊は、このようなお方です。ダビデのような特定の人に、聖書のことばを語る(預言する)そのような一時期に注がれるのが聖霊でした。しかし、今、このとき、ユダヤ人たちは、目にし、耳にしたのです。どのようなことを、ですか?聖霊が、特定の人に、ではなく、すべての人々に、一時的に、ではなく、賜物(つまり、いただきもの)として与えられるのを、目にし、耳にしたのです。
 なぜ、そのようなことが起こったのでしょう?神の右に上げられたイエス様が、御父から受けて、注いでくださったからです。そのような、イエス様を、イスラエルの全家は、十字架につけたのです。
 まとめます。イスラエルの全家は、どなたを十字架につけたのでしょう?・神様が、キリストであられることを証しされたイエス様を、・預言されていたとこしえの王座に就かれたイエス様を、・神の右に上げられ、聖霊を注がれたイエス様を、十字架につけたのです。
 ですから、再び、36節です。:36(読む)ユダヤの人々は、これを聞いてどうしたでしょう?:37(読む)「心を刺された」のは、神様に対して、どのような罪を、どれほど犯したのかが、分かったからです。このままでは、どうなるでしょう?お怒りになった神様にさばかれ、永遠の火に投げ込まれるほかありません。
 そこで、ペテロは、このように言いました。38節です。<それぞれ罪を赦していただくために>つまり、罪は赦される、ということです。その罪は、「神が、主とも、キリストともされたイエスを、十字架につけた」というものです。しかし、それほどの罪であっても、神様は、赦してくださるのです。
 では、赦していただくためには、どうしたら良いのでしょう?38節の続きです。<悔い改めて>とあります。「悔い改める」というのは、“進んでいる向きを変える”ということです。(“方向転換”です。)ユダヤ人たちは、これまで、向きを変えることなく進み、ついには、イエス様を十字架につけてしまいました。向きを、変えなければなりません。どのような方向へと、でしょう?イエス様を主とし、イエス様をキリストとする、そのような向きへと、です。
 ペテロは、続けます。<悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。>悔い改めて、つまり、「イエス・キリストを信じない」から、「イエス・キリストを信じる」へと、方向転換して、向きを変えたならば、そのイエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい、ということです。
 “イエス・キリストの名によって”には、二つのことが考えられます。一つは、「イエスは、キリスト。」との信仰告白を公にして、バプテスマを受けなさい、ということです。もう一つ、名というのは、人格、権威、本質全体を表しています。ですから、イエス・キリストご自身によって、バプテスマを受けなさい、ということです。そうすれば、何ですか?38節の最後です。<そうすれば、賜物として聖霊を受けます。>
 39節、<この約束>というのは、(あらためて確認します)どのような約束ですか?38節の約束です。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」では、この約束は、誰に与えられているのでしょう?だれにでも、です。39節の後半です。<すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。>
 だれにでも、ですが、「私たちの神である主が召される人なら」とは、どういうことでしょう?たとえば、41節をご覧ください。この人々は、ペテロのことばを受け入れ、悔い改めてバプテスマを受けました。それは、この人々を、神である主が召されたからなのです。この人々は、神である主が召されたからこそ、ペテロのことばを受け入れ、バプテスマを受け、仲間に加えられたのです。こんにちの教会も同じです。なぜ、私たちは、仲間に加えられたのでしょう?それは、バプテスマを受けたからですが、受けることができたのは、神である主が召してくださったからなのです。
 では、40節です。「曲がった時代」とは、どのような時代でしょう?・イエス様が、「不信仰だ」と非難された時代です。(ルカ9:41)・イエス様は、この時代の人々に、捨てられなければなりませんでした。(17:25)・その血の責任を、問われる時代です。(11:51)ですから、ペテロは、「この曲がった時代から救われなさい」と言いましたが、その内容は、39節までで、語って来たことと同じだということが分かります。
 :41(読む)、<その日>というのは、五旬節の日のことです。ここに、キリストの教会が、誕生しました。このように、最初の地域教会は、エルサレム教会でした。このエルサレム教会と、私たち浦和福音教会は、キリストの教会としては、ひとつです。使徒信条に、「聖なる公同の教会」という言葉がありますね。時代、場所、民族、文化を超えて、“ひとつであるキリストの教会”を指して、「公同の教会」と、呼びます。ですから、エルサレム教会と、浦和福音教会は、ひとつですが、地域教会としては、違いがあります。
 エルサレム教会は、ユダヤ人の集まりでした。私たちは、ユダヤ人ではない、異邦人の集まりです。ユダヤ人たちは、すでに神の民であり、律法を持っていました。私たちは、まことの神を知らず、律法も持ってはいませんでした。悔い改める罪も、具体的な一つ一つの罪は、同じではないでしょう。しかし、この罪の悔い改めは、同じでなければなりません。ユダヤ人たちは、どのような罪を、悔い改めましたか?「神が、主とも、キリストともされたイエスを、十字架につけた罪」を、悔い改めました。私たちは、この罪を、悔い改めたでしょうか?確かに、直接、十字架につけたのは、およそ2000年前のユダヤ人たちです。しかし、ペテロは、その手紙(Ⅰペテロ2:24)の中で、このようにも教えています。「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」キリストは、私たちの罪のために死なれました。キリストが、死なれたのは、私たちの罪のためです。私たちの罪が、キリストを殺しました。私たちが、キリストを、神が、主とも、キリストともされたイエス様を、十字架につけたのです。私たちは、このことを、はっきりと知らなければなりません。心を刺された人は、悔い改めましょう。すでに、バプテスマを受けていたとしても、遅くはありません。悔い改め、この罪を赦していただき、聖霊に満たされましょう。