使徒の働き2章14節~36節
「ペテロの説教」

 今、私たちは、聖書の朗読を聞きました。これが、キリストの教会が誕生して、最初になされた説教です。今日は、この説教から学びますが、その前に、説教とは何か?ということを知っておきましょう。なぜなら、五旬節の日に誕生したキリストの教会が、すぐに行ったことが、宣教と説教だったらです。
 宣教と、説教です。宣教については、2章の4節から13節に記されています。:4(読む)他国のいろいろなことばで、様々な外国語で、何を話し始めたのでしょう?神の大きなみわざでした。11節に、このようにあります。誕生した教会が、すぐに始めたことは、宣教でした。この出来事は、教会の使命が、宣教であることの“しるし”です。この日、誕生した教会は、主が、またおいでになる時まで、あらゆる国々に、その国の言葉で、神の大きなみわざを語り続けます。
 また、宣教に続き、誕生した教会が、すぐに行ったのは、説教でした。それが、今日の箇所です。宣教と、説教は、教会が、最優先にすべき使命です。ですから、説教とは何か?ということを、ともに知っておきましょう。
 まず、説教とは、使徒たちの教えを、教えることです。14節をご覧ください。<ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた>とあります。ともに立ったことは、この説教が、使徒たちの権威によって、使徒たちの教えが語られたことを示しています。また、42節をご覧ください。ここには、教会の様子が記されています。<彼らはいつも、使徒たちの教えを守り>とあります。ですから、説教とは、使徒たちの教えを、教えることです。さらに言えば、使徒たちの教えを、守るように教えることです。ですから、教会は、使徒たちの教えではない教えが、入り込まないようにしなければなりません。
 次に、説教は、そこに集まって来た人々に語られる、ということです。5節、6節をご覧ください。:5、6(読む)このような人々に対して、ペテロは語ったのです。このペテロの説教は、旧約聖書が三ヶ所も引用され、「あなたがた」との呼びかけが何度もあり、「イエスを、律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺した」と の指摘があり、ダビデを、父祖と呼んでいる、それは、そこに集まっていたのが、大勢のユダヤ人たちだったからです。今は、出版されている説教集もありますし、説教を動画で見ることもできます。私自身も、そのようなものから、教えられたり、励まされています。しかし、それは、説教そのものではない、説教というのは、そこに集まって来た人々に対して、語られるものだからです。
 また、説教は、預言である、ということです。このことは、ペテロの説教の内容を見ながら、学びたいと思います。
 では、14節から36節です。ここから、三つのことを、皆さんにお伝えします。まず、第一に、神様は、私たちに御霊を注がれ、私たちは預言するということです。14節から21節までです。
 ここで、ペテロは、二つのことを行っています。一つは、弁明です。酔っているのではない、預言の成就だ、ということを説明し、正しい理解を示しています。13節で、「彼らは酔っているのだ」と嘲(あざけ)る者たちがいました。それは、五旬節の日に、起こったことに対してです。2章の1節から4節です。ここに記されているように、五旬節の日になって、皆が聖霊に満たされました。御父は、約束された通りに、聖霊を注いでくださったのです。:4(読む)そのような彼らを、嘲る者たちもいました。
 ですから、ペテロは、このように弁明しています。:15、16(読む)今は、朝の九時です。敬虔なユダヤ人にとって、九時頃というのは、朝の祈りの時間で、その祈りが終わるまでは、食事はとらなかったようです。また、その食事もパンが中心で、お肉やぶどう酒は、夕食にとったと言われています。ですから、酔っているのではない、預言の成就だということです。
 その預言が、17節、18節に記されています。この預言が成就したので、さらに、それに続く預言(19節から21節の預言)も成就すること、として、ペテロは、語っています。これが、一つ目のことです。
 もう一つ、ペテロが行っていることは、預言です。17節、18節の預言は、ペテロ自身にも成就しました。この五旬節の日に、神様はペテロにもご自分の霊を注いでくださったのです。ですから、ペテロは、ヨエルの預言の通りに、何をしたのですか?ペテロも、預言をし、ペテロも、幻を見、夢を見たのです。
 ここで、預言と、幻と、夢の関係を、整理しておきましょう。17節の終わりの2行をご覧ください。ここでは、預言し、幻を見、夢を見る、と教えられています。次の18節でも、ほとんど同じ内容が繰り返されていますが、18節では、最後の行に<すると彼らは預言する>と、預言だけです。ですから、預言と、幻と、夢は、一つですが、その中で、預言は欠かせません。預言、神様が言われたことが、重要です(その中心です)。幻と、夢は、「どちらなのか」が分かる場合と、よく分からない場合があります。ですから、その区別自体は、それほど気にしなくて良いでしょう。なぜ、このように詳しく話しているのかというと、神様は、私たちにもご自身の霊を注がれ、私たちも預言するからです。(すでに、しているからです。)
 では、ペテロのことにもどります。神様は、ペテロにも、ご自分の霊を注がれ、ペテロは、預言しました。19節から21節を、例として、そのことを学んでみたいと思います。この19節から21節のみことばは、ヨエルの預言です。ペテロは、聖霊に満たされる前にも、このみことばを聞いていたはずです。ヨエルの預言として、聞いて、知っていたはずです。しかし、聖霊に満たされると、どのようなことが起こったのでしょう?神様が、ペテロ自身にも、19節から21節のみことばを、語られたのです。ですから、19節から21節は、単なる旧約聖書の引用ではない、ペテロ自身も、神様から伺い、人々に語っているみことばです。つまり、預言しているのです。
 ですから、ヨエルが預言し、19節から21節の光景を見たように、ペテロも、預言し、ペテロ自身も、その幻を見、その夢を見たのです。これが、説教です。説教は、預言だと言ったのは、このことです。聖霊に満たされた説教者の預言が、説教です。「主の大いなる、輝かしい日が、来ます。その日が来る前には、しるしと不思議しての、様々な天変地異が起こります。しかし、主の御名を呼び求める者は、みな救われるのです。」もし、今、私たちが、このみことばを、単に、235頁の初めの3節を読んだ、ということではなく、神様が、自分に言われたみことばとして聞き、みことばの通りに幻を(夢を)見ることできるなら、それは、聖霊に満たされているからです。伺ったみことばを、語れば、それが、預言するということです。
 皆さん、これが、教会が誕生して、すぐになされた説教で、最初に語られたことでした。神様は、すべての兄弟姉妹に、ご自身の霊を注いでくださいます。すると、私たち一人一人が、預言するのです。教会は、聖書のことばを、印刷された文字として読むだけではない、神様から自分自身が伺い、その幻を(夢を)見て、宣べ伝えるのです。
 神様は、「すべての人に、わたしの霊を注ぐ」と、言われました。求めましょう。そうすれば与えられます。探しましょう。そうすれば見出します。たたきましょう。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。天の父は、良いお方ですから、ご自分に求める者たちに、聖霊を与えてくださいます。すると、何ですか?私たち皆、預言するのです。
 第二に、聖霊に満たされると、私たちはイエス様を証しするということです。22節から35節です。22節で、ペテロは、あらためて、「イスラエルの皆さん」と呼び掛けます。そして、一気に、ここからは、イエス、イエス、イエス、です。22節、神様は、イエス様を、証しされた。23節、神様は、イエス様を、ご自分の計画と予知によって引き渡された。24節、しかし、神様は、イエス様を、よみがえらせた。それは、ダビデの預言の成就であることを、25節から35節で語っています。32節を読みます。:32(読む)
 イエス様は、このように言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤ全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」ペテロに、聖霊が臨むと、ペテロは、イエス様の証人なりました。私たちは、聖霊によって、イエス様を知ります。イエス様が、どのようなお方であるのか?イエス様は、なぜ、十字架に引き渡されたのか?イエス様は、どのように、よみがえられたのか?イエス様は、神の右にあげられ、何をしてくださったのか?(何をしておられるのか?)知るだけではありません。知り、信じ、証しするのです。
 第三に、あなたがたは、イエスを十字架につけたということです。23節をご覧ください。:23(読む)イエス様の十字架の死には、二つの面があります。一つは、神が、定めた計画と、神の予知によって引き渡された、つまり、神様は、私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされ、引き渡されたということです。
 もう一つの面は、ユダヤ人たちが、律法を持たない人々、つまり、ローマの(ローマの兵士たちの)手によって、イエス様を十字架につけて殺した、ということです。もう一ヶ所、36節です。:36(読む)十字架につけた「あなたがた」とは誰でしょう?直接は、このとき、集まっていたユダヤ人たちです。しかし、その人たちだけでしょうか?すべての人が、罪を犯したので、死が、すべての人に広がりました。死が、すべての人に広がったのは、すべての人が、「神への背きの罪」を犯したからです。イエス様は、すべての人の罪のゆえに、死に渡たされました。そのイエス様を、私たちすべてで、十字架につけて殺したのです。ですから、私たちは、はっきりと、知らなければなりません。そして、はっきりと、語らなければなりません。神様が、主ともキリストともされたイエス様を、私たちは十字架につけたのです。