使徒の働き5章33節~42節
「御名のために辱められるに値する者」

 今日の箇所には、3通りの人々が登場します。・大祭司たち。・ガマリエル。・使徒たちです。大祭司たちは、使徒たちの答えを聞いて、怒り狂いました。33節です。また、ガマリエルです。34節から、39節です。ガマリエルは、使徒たちを放っておくように、と勧めました。そして、使徒たちです。40節節から、42節です。使徒たちは、イエス・キリストを、宣べ伝えることをやめませんでした。この3通り人々です。このような人々を通して、私たちに教え、戒めておられる主の御声を、聞きましょう。
 33節をご覧ください。33節<これを聞いて>とあります。これというのは、29節から32節の、ペテロたちの答えです。大祭司の尋問への答えです。ですので、あらためて、27節から32節までを読みます。これを聞いて、彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えたのです。なぜ、これ程までに、大祭司たちは、怒り狂ったのでしょう?
 第一に、使徒たちが、このように答えたからです。「人に従うより、神に従うべきです。」29節です。ここで人とは、誰のことですか?大祭司です。(大祭司が、議長を務める最高法院のことです。)
 大祭司の立場で、考えてみましょう。大祭司というのは、当時のユダヤ人社会では、宗教的にも、政治的にも、頂点に立っていました。まず、宗教的に、です。祭司というのは、神の民の代表です。神の民の代表として、神殿で奉仕をしていました。その祭司たちの上に、何人かの祭司長がいて、その上が大祭司です。
 また、政治的にも、です。最高法院というのは、政治と、司法の最高議会です。その議長が、大祭司でした。「大祭司」、その職名と、権力は、その職を退いても、残ったほどです。
 そのような大祭司が、です。使徒たちを、尋問しました。28節「あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。」あの名、というのは、イエス様の御名のことです。
 しかし、ペテロたちは、このように答えたのです。「人に従うより、神に従うべきです。」ですから、大祭司たちは、怒り狂い、殺そうと考えたのです。
 第二に、ペテロたちが教えていたのは、イエス様が、キリスト(救い主)であられる、という教えでした。その教えは、“誰の教えなのか?”ということです。(誰の教えでしょう?)大祭司は、「自分たちの教え(つまりペテロたちの教え)だ」と尋問しました。しかし、ペテロたちは、「それは、自分たちの教えではなく、私たちの神の教えだ」と答えたのです。
 (確かめてみましょう。)大祭司は、このように、尋問しました。28節の2行目、「それなのに」からです。「それなのに、何ということだ。おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。」“神の教えでは決してない、自分たちで作り出した教えを、広めてしまった”と尋問したのです。
 しかし、ペテロたちは、何と答えたのでしょう?“自分たちの教えではない、神の教えだ”と答えました。“私たち父祖の神の教えです”と答えたのです。この“私たち”の中には、大祭司を始め最高法院の議員達も含まれています。議員たちは、神の教えの専門家たちです。そのような議員たちに反論したのです。さらに、「聖霊様も、“私たちの教えが、神の教えであること”の証人です」と答えたのです。22節の後半です。<神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。>ですから、大祭司たちは、怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えたのです。
 第三に、彼らが、そこまで怒り狂ったのは、ペテロたちが、「あなたがたが木にかけて殺したイエス様こそ、救い主(キリスト)だ」と答えたからです。30節、31節です。大祭司たちは、悔い改めませんでした。“イエス様を木にかけて殺した罪”を、赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの御名によって、バプテスマを受けることは、ありませんでした。むしろペテロたちの答えを聞いて、怒り狂い、使徒たちを殺そうとしたのです。
 私たちは、どうでしょうか?・「人に従うより、神に従うべきです」との教えを聞いて、怒りをおぼえることはありませんか?・「イエス様が、導き手、また救い主であられる」とのみことばに、怒りを感じることはないでしょうか?・「あなたがたが、イエス様を木にかけて殺した」と言われて、怒りがわいてくることはありませんか?
 教会の交わりの中で考えてみましょう。たとえば、夫が、妻に、「イエス様のことを、他の人には、あまり話さない方がいいんじゃないか」と、言ったとします。そのように言われても、妻は、話すことをやめません。夫は、あらためて、“他のところで、イエス様の話はするな”と注意します。しかし、妻は、こう言いました。「人に従うより、神に従うべきです。」もし、私たちが、夫であったら、怒らないでしょうか?
 また、二つ目のことも、考えてみましょう。たとえば、父親が、子どもに、このように教えたとします。-イエス様だけが、導き手、また、救い主とは限らない。自分の人生なのだから、自分が導き手となっても良いし、学歴や、経済力、また良い人間関係も、救いとなる。-その時に、子どもが、こう答えたとしましょう。-いいえ、イエス様だけが、私の導き手、また救い主です。-もし、私たちが父親だったら、そのよう子どもに、怒りをおぼえないでしょうか?
 使徒たちの答えは、聖霊なる神様の証言でもあります。「人に従うより、神に従うべきです」と聞いて、“イエス様の他には、私たちの導き手、また救い主はいない”と聞いて、怒りをおぼえるならば、その怒りによって、私たちは、イエス様を、木にかけて殺したのです。悔い改めましょう。神様が、悔い改めさせ、罪の赦しを与えてくださいます。
 では、次です。次に登場するのは、誰ですか?ガマリエルです。ガマリエルは、使徒たちを、しばらく議場の外に出させます。34節です。・それから、テウダのこと、ガリラヤ人のユダのことを、例に挙げ、このような提案をしました。38節、39節です。議員たちは、彼の意見に従い、最高法院は、使徒たちを釈放しました。使徒たちは、ガマリエルによって、釈放されたのです。
 この前に、公の留置場に入れられた時は、どうだったでしょう?5章の17節、18節、この時です。この時は、主が、御使いを遣わし、使徒たちを、連れ出してくださいました。そして、今回は、ガマリエルによって、です。
 そのガマリエルは、どのような人物だったのか?2つ、・一つは、パリサイ人でした。・もう一つは、イエス・キリストを信じていませんでした。主は、そのような人物によって、使徒たちが、釈放されるようにしてくださったのです。
 この2つのことを、もう少し、詳しく説明します。まず、パリサイ人でした。パリサイ人というのは、ユダヤ教、パリサイ派の人々のことです。イエス様は、パリサイ人を、強く非難されました。ルカの福音書11章を開いてみましょう。39節から、です。:39、42、43、44(読む)このように、イエス様は、パリサイ人の偽善を、非難されました。また、最高法院、イエス様に、死刑を宣告した、最高法院の議員の一部も、パリサイ人でした。
 また、ガマリエルは、イエス・キリストを信じていませんでした。使徒に働き5章38節、39節にもどりましょう。このように、ガマリエルは、放っておくことを提案しました。しかし、使徒たちの確信は、違います。使徒たちの“計画や行動”は、人間から出たものではなく、神様から出たものでした。なぜなら、神様は、イエス様を、よみがえらせたからです。ガマリエルには、そのような信仰は、ありませんでした。主は、パリサイ人で、イエス・キリストを信じていないガマリエルを通して、使徒たちが、釈放されるようにしてくださったのです。
 こんにちも、同じです。主は、時には御使いによって、時にはクリスチャンではない方々を通して、私たちを、悪から救い出してくださるのです。
 では、最後に、使徒たちです。40節から、42節です。このように、使徒たちは、“御名のために辱められるに値する者”と、されたことを喜びました。これ程までに、御名を喜んだのです。私たちは、何を喜んでいるのでしょうか?これ程までに、主の御名を喜んでいるでしょうか?
 イエス様は、このようなことも、教えられました。ルカの福音書6章22節、23節です。<天においてあなたがたの報いは大きいのですから>とあります。確かに、使徒たちは、復活を信じていました。ですから、天での報いが大きいことを、躍り上がって喜んだのです。また、23節の終わりに、<預言者たちに同じことを>とあります。預言者たちだけではありません。イエス様も、同じことをされました。それは、使徒たちにとって、“喜び”だったのです。「自分たちも、預言者たちと同じように、なんとイエス様と同じように、“辱められるに値する者”とされている」という“喜び”です。
 そのような喜びは、行いとなって表れていました。使徒の働きに、戻りましょう。5章42節です。40節に、“むち打ち”とあります。これは、「四十回より一回少ないむち打ち」という刑罰で、このために、死亡する人も、(まれにですが)いたことが、知られています。そのような刑罰を受け、「イエスの名によって語ってはならない」と命じられたにも関わらず、使徒たちは、やめませんでした。なぜでしょう?イエス・キリストの御名が、喜びだったからです。42節をご覧ください。毎日であったのは、宮だけではなく、家々でも、だったのは、教え、宣べ伝えることをやめなかったのは、イエス・キリストの御名を、喜んでいたからです。聖霊様によって、神様が、与えてくださる喜びです。(しばらく、ともに、祈りましょう。)