説教全文

創世記38章 「ユダの子孫」

 1節から5節です。:1<そのころのことであった>そのころというのは、ヨセフを売ったころ、父のヤコブがヨセフのために、何日も嘆き悲しんでいたころ、のことです。ユダは、兄弟たちから、つまり、神の民から、離れて下って行きました。その先は、どこですか?<名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った>とあります。アドラムというのは、カナン人の町です。ユダは、12節を見ると、このヒラと親しかったことが分かります。12節の終わりに、<友人でアドラム人のヒラも・・・>とあります。さらに、ユダは、カナン人の娘を妻にします。
 このように、ユダは、神の民から離れ、神の民ではないカナン人を友人とし、異教の民カナン人を妻にしました。つまり、神の“祝福の契約”から離れて、下って行ったのです。ユダの妻は、身ごもって男の子を三人産みます。ユダは、それぞれ、エル、オナン、シェラ、と名付けました。エル:注意深い、オナン:強い、シェラ:願い、という意味のようです。ユダは、シェラが産まれた時には、ケジブという町に住んでいました。ケジブというのは、“誤り”という意味のようです。偶然ではないでしょう。このようにして、ユダは、ますます神の祝福の契約から離れ、下って行ったのです。
 ユダは、長子エルに、妻タマルを迎えます。タマルの父の家(実家)は、どこかというと、11節、12節、13節から、ティムナであったことが分かります。ですから、タマルも神の民ではなく、カナン人でしょう。しかし、主は、エルを殺されます。エルが、主の目に悪しき者であったからです。そこで、ユダは弟オナンにこのように命じました。:8(読む)これは、当時のしきたりで、レビラート婚と言われるものです。のちに、申命記に、記されます。25章の5節から10節です。358頁、5節、6節だけを読みます。:5、6(読む)主が、このようなことを命じられたのは、何のためでしょう?6節の終わりにあるように、<その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない>ためでした。ここで、主がアブラハムに言われたことを、思い出してみましょう。主は、言われました。<確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。>(創22:17)また、イサクに言われました。<そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。>(創26:4)そして、ヤコブに言われたのです。<あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。>(創28:14)このように、イスラエルにとって、子孫が多くなるということは、主のみこころでした。ですから、子孫を増やすということは、イスラエルにとって、重大な責任だったのです。
 ユダは、弟オナンに、レビラート婚を命じます。オナンは、どうしたでしょう?:9、10(読む)このように、オナンは、兄に子孫を与えないようにしたのです。子が生まれないようにしました。なぜでしょう?それは、生まれる子が、自分のものとならないのを、知っていたからでした。自分のものとならないのは、長子だけなのですが・・・、弟からは、自分のものです。ただ、長子が兄のものとなると、財産の多くが、その長子のものとなってしまう、ということはあります。オナンのしたことは、主の目に“悪しきこと”でした。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの神、そのみこころに、あえて背く、そして、背き続けることだったからです。主は、オナンを殺されました。
 長子エル、弟オナン、次は、シェラのはずです。ユダは、嫁のタマルに、このように言いました。11節、「わが子シェラが成人するまで、あなたの父の家でやもめのまま暮らしなさい。」成人するまで、というには口実ですね。続いて<シェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである>とあります。ユダは、このように考えたようです。「長子エルは、タマルと結婚して死に、弟オナンも、タマルと結婚して死んでしまった。残っているのは、三男シェラだけだ。シェラを、タマルと結婚させて、シェラまで死んでしまったら大変だ。」そこで、“成人するまで”と、ごまかし、父の家に(実家に)帰してしまったのです。皆さん、どう思いますか?タマルのせいですか?違います。長子エルが、死んだのも、弟オナンが、死んだのも、主が殺されたからです。しかし、ユダは、タマルのせいにします。12節には、<かなり日がたって>とあります。やはり、シェラとは結婚させずに、イスラエルの神、主のみこころに従いませんでした。
 12節から19節です。かなりの日がたって、ユダの妻が、亡くなります。その喪が明けたとき、ユダは、羊の群れの毛を刈る者達のところに行きました。これは、“陽気な祭り”だったようです。“羊の群れの毛を刈る”という重労働を何日間かしたあと、それに続いて祭りが行われたと言われています。そのとき、タマルに、ユダのことを伝える知らせがありました。それで、タマルは、遊女のふりをして・・・何をしようとしたのでしょう?14節の後半には、<シェラが成人したのに、自分がその妻にされないことが分かったからである>とあります。タマルは、どのような決心をしたのでしょう?「シェラの妻にされないならば、舅ユダによってでも、子孫を残す」という、決心をしたのです。遊女のふりをして、ユダを待ちました。
 一方、ユダです。妻の喪が明け、羊の群れの毛を刈る祭りに参加し、その帰り道です。(お祭り気分で、だったのかもしれません)ユダは、道端の遊女を買います。嫁タマルとは知らずに、です。遊女のふりをしたタマルは、そのしるし(証拠)として、印象とひも、杖を預かりました。“印象とひも”というのは、おそらく、円筒形のハンコで、芯の部分が空洞になっていて、そこにひもを通して持ち歩いた、そのようなものであったようです。こうして、タマルは、ユダの子を宿しました。
 ユダは、遊女に預けていた、印象とひも、杖を取り戻そうとします。確かに、遊女(娼婦)を買ったはずでした。しかし、「この地には、娼婦がいたことはない」と言われ、その女性を見つけることが出来なかったのです。そこで、ユダは、どうしたでしょう?:23(読む)これは、どういうことですか?ユダは言った。「われわれが笑いぐさにならないように・・・つまり、ユダは、自分が遊女を買ったことが、世間に知られれば、笑いものになるだろうと思った、そこで、“はっきりしないままにしておく”ことに、決めたのです。
 ところが、三か月ほどした時です。24節から26節です。24節、<三か月ほどして、ユダに、「あなたの嫁のタマルが姦淫をし、そのうえ、なんと姦淫によって身ごもっています」と告げる者があった。>とあります。この時、タマルは、法律上は、ユダの三男(シェラ)の嫁でした。ですから、姦淫です。そのことを聞いたユダは、まさか、その相手が自分だとは知らないユダは、このように言いました。「あの女を引き出し、焼き殺せ。」
 一方、タマルは、このようなときのためにと、預かったのでしょう。しるしとして、ユダの印象とひも、杖を、差し出します。ユダは、その証拠を確かめて、言いました。:26(読む)「あの女は私よりも正しい。」そうでしょうか?タマルは、ユダよりも正しい、のでしょうか?どちらも、正しくはないでしょう。シェラを与えなかったユダも、悪いですし、だからといって、遊女のふりをし、姦淫によって身ごもったタマルも、罪を犯しました。
 さて、タマルは、出産します。タマルは、出産しますが、なんと、双子でした。タマルは、この双子を見た時、どのような思いだったのか?また、父親となった(なってしまった)ユダは、どのような思いであったのか?そして、私達、私達の心も複雑です。
 まず、舅ユダも、嫁タマルも、罪を犯しました。ユダは、24節で「あの女を引き出して、焼き殺せ」と言いました。確かに、タマルは、焼き殺されなければならないほどの、罪を犯しました。しかし、それは、タマルだけでしょうか?その相手のユダも同じです。ユダも、焼き殺されなければならないほどの、罪を犯したのです。では、なぜ、神の民ユダは、それほどの罪を犯してしまったのでしょう?兄弟達から離れたこと(:1)。アドラム人ヒラと友人であったこと。羊の群れの毛を刈る祭りには、ヒラと一緒に行きました(:12)。カナン人を妻にしたこと(:2)。使徒パウロは、コリントにある教会に、このように命じました。<惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。>(Ⅰコリント15:33-34)適用するならば、教会の兄弟姉妹との交わりから離れること。むしろ、クリスチャンではない友人との方が、より親しいこと。一緒に神社の祭りに行ったり、或いは、一緒に宴会騒ぎをするような仲であること。イエス・キリストを信じていない人との結婚。そのような悪い交際によって、私達は、良い習慣を損ない、罪を犯してしまうことがあるということです。新年度になって、人間関係も新しくなった、という人もいるでしょう。惑わされてはいけません。悪い交際は、良い習慣を損なうのです。
 また、ユダは、主が、長子エル、弟オナンを殺されると、三男シェラに、妻を迎えようとしませんでした。それは、主の「大いに増やそう」とのみこころに、お応えしないことでもありました。主は、アブラハムの子孫を「大いに祝福し、大いに増やす」と言われたのです。では、こんにち、アブラハムの子孫とは、誰でしょう?主を信じている私達です。ガラテヤ人への手紙には、このようにあります。<信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。>(3:7)
 ですから、こんにち、主が「大いに増やす」と言われるのは、誰に対してですか?信仰によって生きる私達一人ひとりに対してです。キリストの教会に対してです。それは、私達の教会だけを見るならば、あまりよく分からないでしょう。しかし、全世界の教会全体を考えてみるならば、今も増し加えられています。
 主は、私達一人ひとりを、大いに祝福しておられます。主は、“私にも、「大いに増やそう」と、言っておられる”ということです。自分が、キリストの証人として生きることで、自分から、生まれる人がいる、イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、新しく生まれる人がいる、ということです。恐れたり、あきらめたりして、ユダのようにならないようにしましょう。私達が、キリストの証人として生活しているならば、主は、私達によって、神の家族を、大いに増し加えてくださるのです。
 では、最後です。あらためて、生まれた双子の名前を確認しましょう。誰と、誰ですか?ペレツと、ゼラフです。タマルが、ユダに産んだ子は、ペレツと、ゼラフです。このことを、覚えておいて、マタイの福音書1章を開いてみましょう。1章には、イエス・キリストの系図が記されています。2節をご覧ください。<アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み>そして、3節です。<ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み>なんと、ユダと、タマルが、イエス・キリストの系図に記されています。ユダと、タマルは、イエス・キリストの肉親の先祖として、その名前を残されたのです。近親相姦、姦淫の罪を犯した、二人が、です。
 使徒パウロは、テモテへの手紙で、このように記しています。<「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。>(Ⅰテモテ1:15)キリスト・イエスは、罪人をあわれんでくださいます。罪人を救ってくださいます。キリスト・イエスを信じるならば、永遠のいのちを得ることになるのです。
 それは、主の恵みによります。創世記にもどって、49章を開いてみましょう。ユダについては、10節で、このように言われています。10節、<王権はユダを離れず、王笏(しゃく)はその足の間を離れない。>王笏は、座っている王の足の間に置かれたのだそうです。この預言の通りに、ユダと、タマルから、ダビデ王が生まれ、王の王キリスト・イエスがお生まれになりました。ユダが、最もふさわしい人物だったからでしょうか?違います。主の恵みです。私達も、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です(Ⅰペテロ2:9)。主の恵みです。そのような主を、これからも、告げ知らせて行きましょう!