ヨハネの手紙第一5章1節~12節
「イエスがキリストであると信じる者」

 1節の前半だけを読みます。<イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。>私たちは、イエス様が、キリストであられること信じています。それは、神様から生まれた結果であるということです。ですから、私たちは、まずこのことを自覚したいと思います。「私たちは神様から生まれたのだ」ということ、その結果、<イエスがキリストであると信じる者>となったのです。(なっているのです。)
 また、結果であるだけではありません。証拠でもあります。私たちは、イエス様が、キリストであられることを信じています。それこそ、神様から生まれた証拠なのです。ですから、自覚しましょう。「信じる私たちはみな、神様から生まれたのです。」
 1節の後半です。<生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。>ここで、ヨハネは、“一般的なこと”として、このことを記しています。他にも、たとえば、「出身地を愛する人たちは、同じ出身地の人たちを愛します。」というようなことです。もちろん、実際は、そうではない人もいます。しかし、様々なところに見られる一般的なことです。
 そして、2節に、つながります。<このことから分かるように>つまり、「神を愛し、神の子どもたちを愛する」ということは、一般的なことではないのか、ということです。たとえば、同じ有名人のファンが、ファン同士親しくする、ということは、一般的なことです。そのようなことから分かるように、神様を愛する私たちが、お互いに愛し合うことは、一般的なことでもあるし、自然なことでもあるということです。
 2節を読みます。真ん中のあたりに<神を愛し、その命令を守るときはいつでも>とあります。このことから、“神様を愛する”ということは、何だということが、分かりますか?“神様の命令を守ること”、です。このように、愛と、従順は、切り離すことができません。神の子どもたちが、お互いに愛し合うことにおいても同じです。私たちは、互いに愛し、互いに従うべきです。ただ、従ってはならない時があります。それは、相手に従うことが、神様の命令に背くことになる時です。そのような時は、従ってなりません。私たちは、互いに愛し、従うことを、神様の命令として頂いています(神様の命令です)。ですから、相手に従うことが、神様の命令に背くことであるならば、従ってはなりません。罪を犯すことになるからです。従うのではなく、むしろ、戒めるか、責めか、或いは、離れるか、逃げるかすべきです。
 3節に進みましょう。<神の命令を守ること、それが、神を愛することです。>前の2節とは、逆です。2節では、神を愛することは、神の命令を守ることでした。3節では、その逆です。これほどまでに、神を愛することと、神の命令を守ることとは切り離せません。従順な人こそ、愛の人です。
 3節の後半です。<神の命令は重荷とはなりません。>その理由が、4節に記されています。<神から生まれた者はみな、世に勝つからです。>ここで、皆さんに質問します。ヨハネは、ここで、「神様の命令は重荷とはならない」と記していますが、皆さんにとっては、どうですか?重荷とはなりませんか?(それとも、重荷となりますか?)「神様の命令は、重荷となります」という人もいるでしょう。あらためて、みことばを見てみましょう。3節の後半<神の命令は重荷とはなりません。>4節<神から生まれた者はみな、世に勝つからです。>神様の命令が、重荷となるのは、なぜでしょう?このみことばから考えてみましょう。私たちは、神様から生まれました。<神から生まれた者>です。ですから、本来、重荷とはなりません。しかし、神様の命令が(「互いに愛し合いなさい」との命令が)、重荷となることがあります。それは、<世>と、関係があります。世が、神様の命令を、私たちにとって重荷となるようにするのです。
 先週、5章の19節に触れました。19節をご覧ください。<私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。>世全体は、悪い者の支配下にあります。そのような世が、神様の命令を、重荷となるようにするのです。たとえば、2章のみことばを思い出してみましょう。2章15節、16節です。:15、16(読む)悪い者は、私たちが、世と世にあるものを愛するように、と働いています。すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を愛するようにと、働いているのです。その働きによって、私たちが、世と世の欲を愛し始めたら、どうなるのでしょう?その途端に、御父の愛から、離れ始めます。そして、どうなりますか?神様の命令は、重荷となり始めます。「ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛すること」が、重荷となり始めるのです。
 今日の箇所にもどりましょう。:4、5(読む)私たちは、イエス様を、神の御子と信じています。その信仰によって、すでに、「世に勝った者」とされています。信じたことで、世に勝たれたイエス様と、ひとつとされているからです。一方、世との戦いがあります。ありますが、神様から生まれた私たちは、その戦いに勝つことができます。どのように、でしょう?(何によって、でしょう?)信仰によってです。使徒パウロは、このように教えています。<悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。>(エペソ6:11)悪魔というのは、世全体を支配している悪い者です。パウロは、その武具の一つ一つを紹介し、<これらすべての上に>と信仰の盾を取ることを命じます。<これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。>(6:16)たとえば、“憎しみ”という火の矢です。悪い者は、“憎しみ”という火の矢を放ちます。すぐに、信仰の盾を取らなければ、あっという間に、憎しみという炎は、私たちのうちに燃え広がり、激しくなっていきます。信仰の盾を取る、とは、「イエスがキリストである」と信じることです。「人として来られたイエス・キリスト」「イエスは神の御子」「イエスがキリストである」と信じ、告白することで、放たれた火の矢は消えます。
 もちろん、私たちは、祈ります。しかし、使徒パウロは、祈ることだけを教えてはいません。信仰の盾を取って、祈るのです。皆さんの中には、「祈っても、憎しみが消えない」ということを、経験した人もいるでしょう。信仰こそ世への勝利です。火の矢が、放たれたら、「イエスが主」と信じ、告白しましょう。いや、いつ放たれても良いように、「イエスがキリスト」と告白しつつ、生活しましょう。信仰の盾を取ることで、悪い者が放つ火矢をすべて(“肉の欲”という火矢、“目の欲”という火矢、“暮らし向きの自慢”という火矢など)消すことができるのです。
 では、6節から12節です。まず、全体の流れです。5節には、<イエスを神の御子と信じる者>とあります(ありますね)。しかし、“人は、どのようにして信じる者となることができるのか”ということです。どのようにして、でしょう?<証し>によって、です。その証しについてのことが、6節から9節で、教えられています。私たちは、このような<神の証し>によって、信じる者となるのです。では、信じる者となったら、どうなるのか?その結果が、11節12節で、教えられています。
 そのように全体を理解した上で、6節から見ていきましょう。6節から8節までを読みます。:6~8(読む)まず、<水>と<血>とは何か?ということです。水は、イエス様のバプテスマを、血は、イエス様の血、死を指します。(他にも、幾つかの解釈がありますが、そのような理解が、この手紙の文脈に合っていると思います。)つまり、水と、血は、「イエス様は、御父が“世の救い主”として遣わされた御子だ」ということを、証ししているのです。イエス様は、御父が“世の救い主”として遣わされた御子です。
 では、それを、どなたが、“証し”しているのでしょう?御霊です。御霊は、真理ですから、真理を、証しせざるを得ません。御霊は、水と、血によって、証しをしているのです。三つのものが、一致した証しをしています。7節でも<三つ>、8節でも<三つ>と、繰り返されています。それは、このような旧約の律法があるからです。その一部を読みます。<一人の証言によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。>(申19:15)
 ですから、9節は、このように理解することができます。私たちが、二人の、または三人の“人間の証し”を受け入れるのであれば、まして、三つの(三重の)“神様の証し”は、それにまさるものとして、受け入れるべきものではないのか、ということです。御子についての証しは、御霊と、水と、血による“神様の証し”なのです。
 私たちは、どうでしょう?一人からの話や、うわさ、或いは、ネット上の情報やYouTubeでの話は、受け入れるけれども、それにまさる“神様の証し”には(“御子についての証し”には)、あまり興味や関心がない、ということはないでしょうか?私たちは、信仰によって、世に勝つ者とされました。イエス様を、神の御子と信じる“信仰”によってです。その信仰は、どのようにして、強められるのでしょう?御子についての“神様の証し”を聞くことで、強められるのです!以上が、証しについてのことです。
 10節から12節は、その結果について、教えられています。結果は、神様の証しを“信じる者”と、“信じない者”とに、分かれます。:10(読む)前半は<神の御子を信じる者>について、後半は<神を信じない者>についてです。信じる者は、“神様の証し”を自分のうちに持ち、その信仰によって、世に打ち勝ちます。一方、信じない者は、何をしているのでしょう?“神を偽り者としている”という罪を、犯しているのです。私たちは、「信じない」ということを、どのように思ってきたでしょうか?信じて欲しいと思い、あわれんできたかもしれません。しかし、それは、真理を偽りとし、神様を偽り者としている罪なのです。
 信じない者のことは、ここまでにして、使徒ヨハネは、11節<その証しとは>とペンを進めます。:11(読む)神様は、私たちに“いのち”を、与えてくださいました。その“いのち”とは、どのようなものでしょう?御子ご自身、そして、御子との交わりです。それは、喜びが、満ちあふれる、主との永遠の交わりです。
 次に、使徒ヨハネは、ここでも、はっきりと区別をしています。12節です。:12(読む)なぜ、使徒ヨハネは、このように区別しているのでしょう?すでに、私たちは、そのことを4章で学びました。反キリストの霊は、この区別を曖昧にしようと働いています。ですから、12節<御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。>このみことばは、愛のないことばはではありません。むしろ、私たちを愛する使徒の(神の)みことばなのです。私たち教会は、この違いを、決して曖昧にすることはできません。確信しましょう。私たちは、いのちを持っています。神様が、御子を持つ者としてくださった私たちは、いのちを持っているのです。