使徒の働き6章1節~14節
「七人の選出、ステパノ」

 そのころ弟子の数が増えるにつれて、(増えたことで)大きな問題が起こります。このようなことを聞くと、増えない方がいい、問題が起こるよりは、少ないままでいい、と思う人もいるでしょう。では、エルサレムの教会は、どうしたでしょうか?十二人の使徒たちと教会は、その問題と取り組みます。こうして、7節をご覧ください。これが、教会です。教会は、迫害を受けることもある、また教会の中で問題が起こることもあります。しかし、その一つ一つに、聖霊なる神様に、助けていただきながら、取り組むことで、教会は成長して行く、ということです。
 :1(読む)ここに、そのころの教会の様子が記されています<弟子の数が増えるにつれて>とあります。このことが、問題の発端(原因)でした。また、人数だけではありません。言葉が違う人々が、加えられて来ていました。<ギリシア語を使うユダヤ人たち>とあります。この人たちは、ユダヤ人だけれども、ヘブル語を使えない人たち、生まれや育ちが外国で、ヘブル語ではなく、ギリシア語を使う人たちです。そのような人びとと、言葉だけではなく文化が違う、社会的な立場も異なる<ヘブル語を使うユダヤ人たち>がいたのです。
 では、具体的にどのような問題があったのでしょう?“ギリシア語を使う、ユダヤ人のやもめたち”が、毎日の配給においてなおざりにされていた(見過ごされていた)のです。(ここでの“やもめ”というのは、「夫を亡くした独身の女性」のことです。)教会は、やもめのために、毎日、配給をしていたようです。そのための資金は、4章の34節から37節に記されていました。このように、資金は、使徒たちが管理していました。そして、食卓のことにも仕えていたのです。そのころ、教会は、男性だけで五千人を超え、さらに、増えていました。そのような状況の中で、“ギリシア語を使う、ユダヤ人のやもめたち”が、なおざりにされるということが、起こっていたのです。
 では、使徒たちは、どうしたでしょう?男性も女性も大勢になり、とても大変になったので、やめようとしたでしょうか?やめようとは、しませんでした。やもめたちへの配給は、主のみこころにかなったことだったからです。私たちにも、主のみこころを、継続して行っている間に、問題が起こるということがあります。そのような時には、問題が起こったからといって、みこころに従い続けることを、あきらめないようにしましょう。
 使徒たちが、その問題に、どのように取り組んだのかが、2節から4節に、記されています。まず、確認します。問題は、何だったでしょう?“ギリシア語を使う、ユダヤ人のやもめたち”が、毎日の配給においてなおざりにされている、ということでした。そこで、2節です。このように使徒たちは、まず初めに、何が良くないことなのかを、全員に教えました。こんにちの教会においても同じです。牧師が、神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは、良くありません。例えば、説教の準備を後回しにして、他のことに仕えるのは良くないことです。まず、牧師と教会員、全員が、このことを、知らなければなりません。
 その上で、使徒たちが、命じたことは、3節です。皆さんは、この選ぶ基準を聞いて、どう思いますか?食卓のことに仕えるのに、その資格は、「何よりも食卓に仕える能力がある人」、「そのような能力さえあれば良い」ということではありませんでした。その資格は、「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人」ということだったのです。私たちも、それぞれ、奉仕をしています。私たちは、自分自身の能力を問うこともあるでしょう。自分自身で、成功か、失敗かを、問うこともあるでしょう。しかし、主が、私たちに求めておられるのは「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人であること」なのです。
 :3後半、4(読む)七人を選ぶ目的は、2つです。その人たちに、食卓の務めを任せるため、そして、使徒たちは、祈りと、みことばの奉仕に専念するためです。私たちの教会でも、先日、新年度の奉仕者が、任命されました。その目的も、同じです。その奉仕者に、その務めを任せるため、そして、牧師は、祈りと、みことばの奉仕に専念するためです。神のことばを、後回しにするのは、良くないので、牧師は、祈りと、みことばの奉仕に専念する、そのことのためです。これが、目的です。
 ですから、7節をご覧ください。このようには、記されていません。「こうして、“ギリシア語を使う、ユダヤ人のやもめたち”が、毎日の配給において、なおざりにされることはなくなった。」そうではなく、このような結果が、記されています。私たちも、神のことばが、ますます広まっていくことを願っています。弟子の数が非常に増え、また大勢の方々が、次々と信仰に入ることを願っています。私たちも、このような主のみわざを、待ち望んでいます。どうしたら良いでしょう?私たちが、出来ることは、5節です。5節に、<この提案を一同はみな喜んで受け入れた>とあります。私たちの教会では、新年度に向けて、奉仕の分担をすることができました。そのことを、喜びましょう。各奉仕者たちに、それぞれの務めが任され、牧師が、より祈りと、みことばに専念できるようになったことを、私たち全員で喜びましょう。
 では、5節の続きです。:5の続き、6(読む)このように、七人が選ばれ、使徒たちによって任命されました。その名簿の最初に記されている人物、ステパノのことが、8節から7章全体に記されています。ステパノは、教会の歴史上、最初の殉教者となりました。今日は、その途中まで(14節まで)ですが、ステパノの働きと、ステパノへの迫害が、どのようなものであったのかを見てみましょう。
 :8(読む)このように、ステパノは、恵みと力に満ちた人でした。振り返って、5節を見ると、名簿にも、このように紹介されています。<信仰と聖霊に満ちた人ステパノ>ステパノは、信仰と聖霊に満ち、恵みと力に満ちた人でした。そして、8節の後半です。<人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。>“不思議としるし”このようなことは、これまでは、使徒たちによってでした。(確認しておきましょう)2章の43節。また、5章の12節です。このように、使徒たちによって、多くの不思議としるしが、行われていました。
 何のためですか?神様が、イエス様が、証しされるためです。2章の22節を見てみましょう。神様は、イエス様によって、力あるわざと、不思議と、しるしを行い、イエス様を証しされました。同じように、神様は、使徒たちによって、そして、同様に、神様は、ステパノによっても、大いなる不思議と、しるしを行い、イエス様を証しされたのです。
 どこで、でしょう?人々の間で、です。(6章の8節にもどりましょう。)<人々の間で>とあります。例えば、どのような人々の間で、ですか?教会のやもめたちの間で、です。毎日の配給を必要としていた、“ギリシア語を使う、ユダヤ人のやもめたち”の間で、です。人々の間で、ステパノは、恵みと力に満ち、大いなる不思議としるしを行っていました。神様は、そのようにして、イエス様を証しされたのです。私たちも、同じです。新年度から、新しい体制での奉仕が始まります。神様は、私たちを、信仰と聖霊に、満たしてくださいます。(求めましょう。)恵みと力に、満たしてくださいます。そして、神様は、私たちが仕える人々の間で、“イエス様が、キリストであられること”を証しされるのです。
 9節<ところが>です。「リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々」が、(14節まで、です)このように、ステパノを、最高法院に引いて行かせたのです。まず、「リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々」の説明をします。「会堂」とあります。この会堂も、ユダヤ教の会堂です。ただ、一般的な会堂と違うのは、そこに集まっている人々です。リベルテンと呼ばれたように、ローマ帝国の捕虜だった人々(また、その子孫)が集まっていました。(リベルテンというのは、「解放奴隷」という意味です。)ですから、その会堂には、“ギリシア語を使うユダヤ人、ユダヤ教徒たち”が、集まっていたのです。
 整理すると、ステパノに起こったことは、こういうことです。ステパノは、“ギリシア語を使うユダヤ人、クリスチャン”に仕えていました。おもに、とても貧しいやもめたちに、です。ところが、そのようなステパノを、“ギリシア語を使うユダヤ人、ユダヤ教徒たち”が、厳しく迫害したのです。
 :9~14(読む)13節、14節で、偽りの証人たちが、言わされたことを、見てみましょう。二つです。まず、“ステパノは、聖なる所に、逆らうのをやめない。「イエスは、聖なる所を壊す」と、言っている”ということでした。皆さん、どうでしょう?イエス様は、「聖なる所(神殿)を壊す」と、言われましたか?イエス様は、“神殿が、崩されること”を、預言されました。ルカの福音書21章5節、6節です。また、このようにも、教えられました。ヨハネの福音書です。2章13節から、22節です。このように、イエス様が、教えられたことは、“商売の家”とまで、されてしまった“神殿”は壊され、その代わりに、“三日目によみがえられた、イエス様ご自身のからだ”という神殿で、礼拝がささげられるようになる、ということだったのです。私たちは、今、そのような礼拝をささげています。エルサレムにあった神殿ではなく、(私たちは)キリストにあって、一つのからだとされ、主を礼拝しています。ですから、偽りですが、一部だけを切り取った偽り、です。知恵と、御霊に満ちたステパノが、“「イエスは、聖なる所を壊す」と言った”、とだけ、教えるはずはありません。
 使徒の働きの6章にもどりましょう。13節、14節です。もう一つ、偽りの証人たちが、言わされたことがあります。それは、“ステパノは、神の律法に、逆らうのをやめない。「イエスは、モーセが、私たちに伝えた慣習(かんしゅう)を変える」と言っている“ということでした。慣習とあります。この慣習は、モーセの律法を、律法学者たちが解釈したものでした。しかし、そのような解釈も、モーセの律法と同じように、モーセに由来するもの(つまり、モーセが伝えたもの)と、考えられていたのです。ですから、「慣習を変える」と言うことは、神の律法に逆らうことでした。
 ではイエス様は、律法と、慣習に対して、どのような態度を取られたのでしょう?まず、律法に対してです。マタイの福音書5章です。:17、18(読む)このように、イエス様は、律法に逆らうのではなく、むしろ、成就するために来られたのです。では、慣習に対しては、どのようになさったでしょう。15章を開いてみましょう。1節から、3節までを読みます。このように、イエス様は、答えられました。ここで、イエス様が「自分たちの言い伝え」と言われたのが、“慣習”です。このように、ユダヤ人たちは、“慣習”のために、“律法”を破っていたのです。“安息日”も、同じです。安息日の慣習のために、安息日の律法を破っていました。ですから、律法に逆らっていたのは、イエス様でも、ステパノでもありません。リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々であり、最高法院だったのです。しかし、ステパノは、最高法院に、引かれて行きました。
 では、そこでの、ステパノの姿は、どのようであったのでしょう?使徒の働き6章に、もどります。:15(読む)“御使いの顔のように”との表現があります。これは、神様のご臨在に触れ、神様のご栄光の一部を反映していた、という意味です。神様ご自身が、ステパノの潔白を、証明しておられました。神様ご自身が、ステパノの無実を、証明しておられたのです。私たちも、同じです。誰かに仕えたときに、その人と関係のある、たとえば、家族などから迫害を受けることがあります。(恵みと力に満ち、仕えていたにも関わらず、です。)私たちのクリスチャンとしての話しや、行いに対して、不当な、いわれのない、理不尽な非難を、受けることもあるでしょう。しかし、神様は、私たちが潔白であることを、ご存じです。そして、神様ご自身が、私たちの無実を、証明してくださるのです。