イザヤ書5章8節~30節
「主の嘆きと主のさばき」

 先週は、7節までを学びました。少し、振り返ってみましょう。4節をご覧ください。:4(読む)わがぶどう畑というのは、神の民のことです。神の民が、主のぶどう畑にたとえられています。主が、神の民になすべきことで、しなかったことは、何一つありませんでした。ですから、主は、ぶどうがなるのを心待ちにしておられたのです。ぶどうというのもたとえです。主は、神の民の公正、正義を、心待ちにしておられたのです。しかし、酸いぶどうができてしまいました。悪いぶどう、悪臭のする実ができてしまったのです。7節には、このようにあります。:7(読む)では、実際に流血、 悲鳴とは、どのようなものであったのか?それが、8節以下に記されています。
 先ほど、司式者が朗読してくださいましたが、今日の箇所には、「わざわいだ」ということばが、6回も出てきます。まず、8節です。:8(読む)これは、神の民の中に、どのような人々がいたということですか?自分たちだけ、という貪欲な人々がいたということです。そのような人々は、家に家を、畑に畑を手に入れていました。他に人々には土地を残さず、自分たちで土地を独占しようとしていたのです。神の民ですから、土地は、主に属しているということを知っていたはずです。また、イスラエルでは、家族の所有地は、家族内で保有されていました。しかし、力のある人々が、隣人のものを欲しがり、その家をゆすり取り、その畑をかすめる(盗む)ことまでしていたのです(ミカ2:2)。土地の投機(売買)もなされていたようです。
 そのような人々を、主は「わざわいだ」と、言われました。そして、イザヤに、告げられたのです。9節、10節です。<私の耳に万軍の主は告げられた。「必ず>必ずです。主は、必ず、さばかれます。<多くの家>それは、貪欲に、家に家を連ねたものでした。しかし、その多くの家は、荒れすたれます。また、<大きな美しい家々>は、隣人から搾取して(しぼり取って)建てたものでしょう。そのような家々も、住む者がいなくなるのです。
 なぜでしょう?10節に、その理由(原因)が知らされています。それは、ぶどう畑の収穫が、あまりにも少なくなるからです。畑に畑をと、むさぼる者たちは、とても広い畑を自分のものとします。しかし、土地は、その広さに応じた収穫をもたらしません。ツェメド、バテ、ホメル、エパという単位で表されていますが、これは、普段なら取れる収穫量の十分の一だけを産する、ということでしょう。このように、主は、むさぼりという罪を、必ず、さばかれるのです。
 次は、11節です。ここで、わざわいだと言われているのは、どのような人々でしょう?12節に<彼らの酒宴には>とあります。ですから、酒宴ばかりしている人々です。今風に言えば、パーティーやフェス、イベントなどを、次から次へと追い求め、そのような騒ぎに身を委ねている人々のことでしょう。神の民であるのに、です。2節の後半には、このようにあります。<彼らは主のなさることに目を留(と)めず、御手のわざを見もしない。>彼らは、主のなさること、御手のわざに、無関心でした。なぜでしょう?関心があるのは、いつも酒宴だからです。関心があるのは、酒宴の音楽と酒のことばかりで、主のなさること、御手のわざには無関心だったのです。
 皆さん、このような罪を、決して軽いものだと考えてはいけません。むしろ、どれほど重いのかが教えられています。13節は、<それゆえ>と始まります。さらに、14節で、<それゆえ>と、二重のさばきが預言されています。13節では、捕え移される、捕囚となること、14節では、よみというのは、死んだ者たちが住む場所のことです。よみに落ち込む、エルサレムは、エルサレムごと滅びるのです。:15、16(読む)主は、さばかれます。高ぶる者たちを、不動産をむさぼり、高ぶる者たちを、主には関心がないという高ぶる者たちを、必ず、さばかれるのです。
 16節の2行目、3行目をご覧ください。<聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。>言葉の説明をすると、“聖なる”というのは、分離された(分けられた)というのが元々の意味です。ですから、神様は、人間とは分けられている、つまり、神様は、超越しておられる、唯一であられる、ということです。もう一つ、正義という言葉です。<正義>は、まっすぐというのが、元々の意味です。神様は、まっすぐな基準によって、まっすぐにさばかれるのです。一方、人間のさばき(裁判)は、どうでしょう?曲がっています。まっすぐであることを願いますが、どこかが必ず曲がっています。咎という言葉があります。(罪、咎の咎です。)その元々の意味は、ゆがみ、ひずみです。人間は、咎によってさばくほかありません。しかし、万軍の主は、正義によって、です。16節をもう一度読みます。<しかし、万軍の主はさばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。>正義は、まっすぐ、咎は、ゆがみです。何に、対してですか?(正義は、何に対してまっすぐで、咎は、何に対してゆがんでいるのでしょう?)神の律法、みことばに対してです。聖なる神は、みことばによるさばきによって、自ら聖なることを示されるのです。
 次の17節、<子羊は・・・草を食べ、超えた獣は・・・食をとる>とあるので、ざっと見ると、ほのぼのとした感じもしますが、違います。これは、“ゴーストタウンとなる”という預言です。2行目に<廃墟に>とあります。エルサレムは、神様のさばきによって、廃墟となるのです。
 では、18節、19節です。わざわいだと、主が嘆いておられるのは、どのような神の民でしょう?嘘をつき、罪を犯している者たちです。18節には、そのことが、一つのイメージで、描かれています。:18(読む)嘘をつくことで、罪を犯している者たち、罪を犯すために、嘘をついている者たちは、わざわいです。
 彼らは、言います。:19(読む)何を言っているのでしょう?「彼のすること、つまり、預言者イザヤのすることを早くさせよ。急がせよ。それを、主のさばきを見てみたい。」ということです。彼らは、預言者の語る、主のさばきのことばに、とても挑戦的です。さらに、続きをご覧ください。「イスラエルの聖なる方のご計画が近づいて、成就すればよい。それを知りたい。」つまり“私たちも、さばきを知ってみたいものだ”と、主を挑発し侮辱したのです。
 彼らは、「早くさせよ。急がせよ。」と、言いました。19節の1行目、2行目です。ですから、彼らへの主のさばきは、“急いで、速(すみ)やかに”来るのです。24節以降に、<それゆえ>と預言されています。24節<それゆえ>25節<それゆえ>25節の後ろから2行目<それでも>そして、26節です。3行目<すると見よ、それは急いで速(すみ)やかに来る。>主のさばきは、急いで、すみやかに来るのです。
 次は、20節です。神の民の悪の基準、私たちの善の基準は何でしょう?神のことば、みことばです。しかし、彼らは、自分の利益になれば、悪を、善としました。また、自分に都合が悪ければ、たとえ善でも、悪としたのです。彼らの判断の基準は、自分です(主観です)。みことばではなくて、自分がどう考えるのか、自分がどう思うのか、自分がどう感じるかが、基準です。そのような者たちは、わざわいです。
 21節、:21(読む)知恵も、悟りも、主のもの、主からのものです。ですから、このように高ぶる者の目は、主のさばきによって低くされるのです。
 22節、23節、ここで、わざわいだと言われているのは、どのような者たちでしょう?酒を飲むことで、正しい判断を失ってしまった者たちです。:22(読む)<豪の者>というのは、ここでは、“優れている者”というような意味です。ですから、これは、皮肉です。勇士は、勇士であるべきです。決して賄賂は受け取らない、どのような悪者にも、恐れることなく「悪い」と宣言する、それが勇士です。しかし、彼らが勇士だったのは、酒を飲むことにかけて、それだけでした。彼らは、23節、彼らは、賄賂を受け取り、悪者を正しいと宣言し、その悪者から、正しい者たちの正しさを遠ざけていたのです。“正しい者たちの正しさを遠ざけていた”とは、どういうことでしょう?「悪者を正しいと宣言する」、そのような不当な判決によって、正しい者たちは、泣き寝入りするほかなかった、ということでしょう。そのような勇士、豪の者は、わざわいです。
 ここで、私たちは、酒、強い酒が、二度も出て来ることに気づきます。一度目は、11節でした。そして、22節で、二度目です。22節の2行目には<強い酒を混ぜ合わせること>とありますが、強い酒に香料を混ぜ合わせていたようです。「どのような香料を混ぜ合わせるのか」、そのことにかけては豪の者、となってしまっていたのです。使徒パウロは、このように勧めています。<また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。>(エペソ5:18)
 では、続きです。それゆえ、と、主のさばきが、預言されます。24節、1行目、2行目です。<それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、枯れ草が炎の中に溶けていくように>これは、たとえです。たとえの中に、また、たとえがあるので、分かりづらいかもしれません。火の舌が、というのは、舌のような火、ということです。少し、想像してみましょう。舌のような火が、次々と刈り株を焼き、全ての刈り株を焼き尽くした・・・どうでしょう?そのように、主のさばきは、徹底的で、隅々にわたる、ということです。また、次の、枯れ草が炎の中に溶けていくように、溶けていくように、というのもたとえで、まるで溶けていくかのように、主のさばきは、あっという間(とても速い)ということです。次の24節、3行目、4行目。これも、たとえです。彼らが、草花にたとえられています。主のさばきは、根にまで及び、その花も、一瞬で、ちりのように舞い上がるということです。
 では、なぜ彼らは、主にさばかれるのでしょう?24節の終わりの2行に、その罪状が示されています。読みます。<彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ。>これが、罪状です。私たちは、きょう、8節の「わざわいだ」から始めて、主が嘆かれた6通りの者達を見てきました。8節、11節、18節、20節、21節、22節。この6通りの者たちの罪状が、ここで一つにまとめられているのです。それは、<彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮った>ということでした。彼らは、万軍の主のおしえを、あってもないかのように軽んじ、イスラエルの聖なる方のことばを、軽く見て、馬鹿にしたのです。
 それゆえ、25節です。:25(読む)2行目、3行目<山々は震え、彼らの屍は、通りで、あくたのようになる。>山々は震え、というのは、地震などの災害です。彼らの屍(彼らの遺体)は、通りで、あくたのように(ゴミのように)なるという、主のさばきの預言です。しかし、それでも、御怒りは収まらず、なおも、主はさばかれます。それが、26節から30節まで、預言されています。このように主は、遠く離れた国によって、イスラエルをさばかれるのです。
 26節から30節まで、ここは、ほとんど説明の必要ないでしょう。一つだけ、28節の後半です。<馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように見える。>馬のひづめは火打石のように、というのは、馬で遠くから来るためには、ひづめが硬くなければならないのだそうです。その国の馬のひづめは、火打石のように、最も硬いということです。次に、その車輪です。この車輪は、戦車の車輪のことで、当時の戦車は、二輪車だったようです。その戦車は、つむじ風のように、最も速いということです。
 ですから、その日、30節を読みます。:30(読む)つまり、主のさばきの日には、イスラエルに望みはない、ということです。しかし、絶望で、終わりではない、6章へと続きます。今日は、ここまでです。イエス・キリストを信じた私たちの罪は、赦されています。しかし、主が「わざわいだ」と嘆かれる罪があるなら、悔い改めましょう。私たちは、さばかれることはありません。さばきを免れました。今日の箇所は、私たちが、どのようなさばきを免れたのかを、知らせています。十字架の主に感謝しましょう。