今日は、メルキゼデクについてです。固い食物ですね。鈍くなっているのであれば、聞くことは困難です。しかし、私達は、キリストについての初歩の教えを後)にして、成熟を目指して進みましょう。
6章20節をご覧ください。「イエスは・・・メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです」とあります。メルキゼデクの例に倣って、ということ、とこしえに大祭司となられた、ということ、この二つを説明します。
まず、とこしえに大祭司となられた、ということです。それは、どういうことなのか?7章24、25節(読む)祭司というのは、神様に近づく人々を、とりなすために、立てられました。イエス様は、とこしえに大祭司となられた、つまり、イエス様は、神様に近づく人々を、完全に救うことがおできになるのです。
では、もう一つ、6章の20節、メルキゼデクの例に倣って、ということです。イエス様より、前の祭司達は、メルキゼデクに倣っては、いませんでした。律法によって、レビ族に、祭司職が与えられたのです。レビの子らの系図に、つながっている者が、祭司職を受けました。しかし、その祭司職によっては、神様に近づく人々を、完全には救うことができなかったのです。
つまり、良心をきよめることも、死んだ行いから離れさせることも、生ける神に仕える者にすることも、できませんでした。そのような意味で、律法は、何も全うしませんでした。レビ族の祭司職は、弱く、無益だったのです。ですから、廃止されました。こんにちの教会には、レビ族の祭司職はありません。
廃止され、もっと、すぐれた希望が、導き入れられました。どのような希望ですか?レビ族ではない、メルキゼデクの例に倣って、大祭司となられたイエス・キリストです。イエス様こそ、ご自分によって、神様に近づく人々を、完全に(永遠に)救うことが、おできになるのです。以上が、7章の中心となるメッセージです。
皆さんの中に、「そのような大祭司こそ、私には必要なお方だ」という人はいるでしょうか?あらためて、7章の25節を読みます。<したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。>すでに、救われている人もいるでしょう。すでに、救われている人は、この確信を持ち続けましょう。イエス様は、完全に救ってくださいます。私達の良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、私達を、生ける神に仕える者にしてくださるのです。