1節の前半だけを読みます。<イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。>私たちは、イエス様が、キリストであられること信じています。それは、神様から生まれた結果であるということです。ですから、私たちは、まずこのことを自覚したいと思います。「私たちは神様から生まれたのだ」ということ、その結果、<イエスがキリストであると信じる者>となったのです。(なっているのです。)
また、結果であるだけではありません。証拠でもあります。私たちは、イエス様が、キリストであられることを信じています。それこそ、神様から生まれた証拠なのです。ですから、自覚しましょう。「信じる私たちはみな、神様から生まれたのです。」
1節の後半です。<生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。>ここで、ヨハネは、“一般的なこと”として、このことを記しています。他にも、たとえば、「出身地を愛する人たちは、同じ出身地の人たちを愛します。」というようなことです。もちろん、実際は、そうではない人もいます。しかし、様々なところに見られる一般的なことです。
そして、2節に、つながります。<このことから分かるように>つまり、「神を愛し、神の子どもたちを愛する」ということは、一般的なことではないのか、ということです。たとえば、同じ有名人のファンが、ファン同士親しくする、ということは、一般的なことです。そのようなことから分かるように、神様を愛する私たちが、お互いに愛し合うことは、一般的なことでもあるし、自然なことでもあるということです。
2節を読みます。真ん中のあたりに<神を愛し、その命令を守るときはいつでも>とあります。このことから、“神様を愛する”ということは、何だということが、分かりますか?“神様の命令を守ること”、です。このように、愛と、従順は、切り離すことができません。神の子どもたちが、お互いに愛し合うことにおいても同じです。私たちは、互いに愛し、互いに従うべきです。ただ、従ってはならない時があります。それは、相手に従うことが、神様の命令に背くことになる時です。そのような時は、従ってなりません。私たちは、互いに愛し、従うことを、神様の命令として頂いています(神様の命令です)。ですから、相手に従うことが、神様の命令に背くことであるならば、従ってはなりません。罪を犯すことになるからです。従うのではなく、むしろ、戒めるか、責めか、或いは、離れるか、逃げるかすべきです。
3節に進みましょう。<神の命令を守ること、それが、神を愛することです。>前の2節とは、逆です。2節では、神を愛することは、神の命令を守ることでした。3節では、その逆です。これほどまでに、神を愛することと、神の命令を守ることとは切り離せません。従順な人こそ、愛の人です。