イザヤ9章8節~10章34節
「インマヌエルの四説教(3)」

 今、朗読した聖書のことばは、イザヤという預言者が記したものです。イザヤは、紀元前8世紀後半、今から約2,700年以上前に生き、活動したことが知られています。当時、アッシリアが、とても侵略的になり、アラムとイスラエル、またユダは政治的にも、軍事的にも不安を抱えていました。そのような状況が、イザヤの使命の背景にあります。
 今日は、先に、10:20-27を見てみましょう。そのあとで、9章の8節から、どのような文脈で(前後関係で)告げられたのかを見てみたいと思います。では、20節から、「イスラエルの残りの者」と、「ヤコブの逃れの者」は、同じ者たちです。イスラエル、ヤコブは、神の民のことです。<もう二度と自分を打つ者に頼らず>とありますが、自分を打つ者とは、アッシリアのことです。南ユダは、神の民とされていました。神の民とされていたのに、神様に頼らず、アッシリアに頼ったのです。アッシリアは、一時的には、南ユダを救います。救いますが、その後、ユダにまで軍事侵攻し、ユダを打ったのです。しかし、「もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る、そのような日が来る」という預言です。
 :21(読む)アッシリアは、神の民を打ちますが、残る者、残される者がいます。その者たちが、立ち返るのは、「力ある神に」です。この「力ある神」は、すでに、9章6節で、示されていました。9章の6節をお開きください。:6(読む)この預言を成就するために、お生まれになったのがイエス様です。イエス様こそ、力ある神です。
 では、10章の20節、21節にもどりましょう。20節<その日になると>、その日というのは、終わりの日です。終わりの日になると、残りの者たちは、力ある神に立ち返ります。では、私たちも、その日を待ち望んでいますが、どのように、待ち望んだら良いのでしょう?アッシリアのような力には頼らない、ということです。アッシリアのような力というのは、自分たちが不安なときに、つい頼りたくなる、神様以外の何らかの力です。(神様ではない、他の力です。)今の社会を考えてみましょう。社会が不安になると、人々は、どのような力に頼ろうとするでしょう?様々な力に、ですね。しかし、私たちは、聖なる方、主に真実をもって頼りましょう。いつでも、力ある神に、立ち返りましょう。神様以外の力あるものは、滅びるからです。
 次です。:22、23(読む)「あなたの民イスラエル」というのは、アブラハムの子孫のことです。神様は、アブラハムを祝福されました。そして、アブラハムの子孫をご自分の民とし、海の砂のように大いに増やすことを、約束してくださったのです。こんにち、アブラハムの“信仰による”子孫たちは、地域の教会にいます。すでに、亡くなった子孫たちを含めると、その人数は、海の砂のように、あまりにも多くて数え切れません。しかし、主に帰って来るのは、その中の残りの者だけです。壊滅は、定められています。万軍の神、主は、「主に真実をもって頼らない者」、「力ある神に立ち返らない者」のすべてを、滅ぼされるのです。
 それゆえ、24節から27節です。主は、イスラエルを滅ぼされたあとに、アッシリアを滅ぼされます。:24~27(読む)アッシリアというのは、こんにちでは、神の民を迫害する国家や、神の民に敵対する者たちのことです。そのようなことは、今もありますし、これからも、続くでしょう。しかし、主は、「恐れるな」と言われます。なぜなら、もうほんの少しで、主の怒りはアッシリアを(アッシリアのような存在を)滅ぼしてしまうからです。
 27節<その日になると>とあります。神の民は、今は、まるで奴隷のようです。迫害する国家の重荷は肩に、敵対する者たちのくびきは首にあります。(くびきというのは、奴隷の自由を奪い、行動を制約するものです。)しかし、その日になると、くびきは外されます。最後の行に、<くびきは脂肪のゆえに外される>とあります。この脂肪は、豊かさや、力の象徴でしょう。ですから、私たちも、迫害を恐れずに、主に真実をもって頼りましょう。もう、ほんの少しで、その日になるからです。迫害を恐れずに、力ある神に立ち返りましょう。以上が、その日についての預言です。
 では、この預言が、どのような文脈(前後関係で)告げられたのかを見てみたいと思います。9章の8節から、10章の4節まで、です。この9章の8節から、10章の4節までが、一つのまとまりですが、四つの部分から成っています。同じみことばが、4回、繰り返されているので、そこで区切ることができます。最初に、そのみことばを確認しておきましょう。
 まず、9章の12節です。12節の最後の2行を読みます。<それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。>次は、17節の(ページをめくって)最後の2行です。<それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。>また、21節の終わりの2行です。<それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。>そして、10章の4節、後半、<それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。>
 これらの、繰り返された預言の通りに、主の、イスラエルへの御怒りは、収まりませんでした。主は、御手を伸ばし、なおも、むちで打つ、なおも、杖で打たれました。しかし、その御怒りは収まらなかったのです。では、なぜ、これほどまでに、主の御怒りは、収まらなかったのでしょう?まず、9章の8節から12節を見てみましょう。:8~12(読む)イスラエルは、主のことばを知り、どうしたのでしょう?イスラエルが知ったのは、主の警告でした。(「れんがが落ちる」、「いちじく桑の木が切り倒される」という、さばきの警告でした。)しかし、そのようなみことばを聞き、どうしたのでしょう?悔い改めないどころか、むしろ、高ぶり、思い上がったのです。10節です。「れんが」よりも、「切り石」の方が、高価です。「いちじく桑の木」よりも、「杉の木」の方が、高級です。ですから、イスラエルは、このように、高ぶり、思い上がって行ったのです。「主のさばきによって、れんがが落ちたから、私たちは、もっと高価な切り石で立て直そう。」「主によって、“いちじく桑の木”が倒されたから、私たちは、ずっと高級な杉の木でこれに代えよう。」
 そこで、主は、どうされると言われたのでしょう。:11、12前半(読む)このように、イスラエルを滅ぼすと、言われたのです。それでも、です。それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされていたのです。こんにちも、主は、私たちに警告を与えられます。戒めや、懲らしめを与えられます。私たちは、それを、知って、どうしているでしょうか?もし、知った上で、高ぶり、思い上がるならば、それは、これほどの罪を、主に対して犯したことになるのです。
 次です。:13(読む)主は、なぜ、私たちを打たれることがあるのでしょう?それは、自分を打った主に帰らせ、万軍の主を求めさせるためです。しかし、イスラエルは、この預言の通りに、主に帰らず、主を求めませんでした。そこで、主は、どうされたのか?:14~17、2行目(読む)この預言の通りに、イスラエルは、迷(まよ)わし、惑(まど)わされ、それゆえ、主が喜ぶことも、あわれまれることもなくなるのです。17節の残り、4行を読みます。:17残り4行(読む)
 次です。それでも、御怒りは収まりません。イスラエルが、悪を行い続けるからです。:18~21(読む)悪を行い続けるイスラエルを、このように、主は激しくお怒りになり、だれも互いに、いたわり合わないように、さらに、敵となるようにされたのです。21節のマナセとエフライムは、北イスラエルを代表する部族で、どちらも、同じヨセフの子孫たちです。彼らは、互いに敵対しながらも、ともに、ユダを敵とします。そのユダも、先祖は、マナセやエフライムと同じ、ヤコブでした。イスラエルは、お互いに敵となったのです。
 それでも、御怒りは収まりません。10章の1節から、4節までです。1節、2節では、イスラエルの具体的な罪が示されています。:1、2(読む)3節<訪れの日>、アッシリアが、イスラエルの人々を捕えたり、殺したりするとの預言です。:3、4(読む)この収まらない御怒りを、神様はどうされるのでしょう?ご自分の民の罪ために、宥めのささげ物としての御子を、遣わされます。何度、御手が伸ばされても、収まることのなかった御怒りは、御子の十字架の死によって、収まったのです。私たちは、そのような主を信じて、救われました。ですから、主のことばを知り、高ぶり、思い上がらないようにしましょう。
 これまで、四つの部分を見て来ました。それぞれに、イスラエルが行った悪が示されていましたが、その始まりは、主への高ぶりと、思い上がりです。アッシリアも、その思い上がりと、高ぶりによって、主に罰せられます。そのことが、10章の5節から19節に記されています。10章の12節をご覧ください。:12(読む)この預言の通りに、主は、アッシリアの王の思い上がりと、その高ぶりを罰せられました。:13、14(読む)14節で、王は、このようなたとえを使い、「たやすかった」と言ったのです。(「私にとって、諸国の民の財宝、地のすべてのものを集めることは、簡単だった」と言ったのです。)鳥の巣をつかもうとすれば、その巣の中にある卵を集めようとすれば、親鳥は、そのような敵に激しく抵抗します。翼をはためかせ、口を大きく開け、鳴いて守ろうとしますが、そのような者は、一人もいなかった、と言っているのです。
 では、なぜ、このように言ったことが、主に罰せられる思い上がり、高ぶりなのでしょう?アッシリアが、それほど簡単に出来たのは、王ではない、主がなされたことだったからです。それゆえ、万軍の主は、預言の通りに、アッシリアを滅ぼされたのです。そして、20節です。<その日になると>との預言です。今日、始めに読んだ箇所です。ですから、その日になると、万軍の主は、高ぶり、思い上がる全ての者を滅ぼされ、残りの者を、力ある神に立ち返らせるのです。
 では、この預言の後(あと)、28節から34節です。まず、28節から32節です。ここで、預言されているのは、アッシリア軍が、エルサレムにまで迫るということです。その預言は、ここまで詳しいものでした。主は、すべてを見通しておられる、ということが分かります。エルサレムは、滅ぼされそうになります。しかし、陥落寸前に、33節、34節の預言が成就しました。:33、34(読む)エルサレムを首都とするユダは、滅ぼされそうになります。しかし、その寸前で、なんとアッシリアが、別の国によって倒されるのです。バビロンでした。
 なぜ、アッシリアは、倒されたのでしょう?「丈の高い」「そびえたもの」、つまり、高ぶり、思い上がっていたからです。ですから、ユダは、アッシリアによって滅ぼされることはありませんでした。しかし、のちに、バビロンによって倒されるのです。ユダも、滅びました。なぜでしょう?万軍の主は、高ぶり、思い上がる、全ての者を滅ぼされるからです。その日、終わりの日に、主に帰って来るのは、聖なる神、主に真実をもって頼った者たちだけです。