今年の年間聖句は、今、朗読した3章6節のみことばです。この言葉によって、生まれつき足の不自由な人が、踊り上がって立ち、そして、歩き出しました。歩きながら、神様を賛美したのです。
人々は、非常に驚きました。その非常に驚いた人々に向かって、ペテロが言ったことが、12節から26節に記されています。ここで、ペテロは、大きく三つのことを言っています。まず、一つ目は、12節から16節までです。16節が、結論です。何が、この人を強くしたのでしょう?ペテロの力ですか?ペテロの敬虔さですか?いいえ、<イエスの名>です。私たちも、1節から10節までを読みました。元旦祈祷会は、この箇所からの説教でした。私たちも、この人が強くされて、完全からだになったのを見て、知っています。何が、この人を強くしたのでしょう?イエスの名です。
たとえば、私たちを強くするのは、有名な牧師先生の力ではありません。その先生が、広く用いられていたとしても、私たちを強くするのは、その先生の敬虔さではないのです。イエスの名です。私たちの主の御名は、これほど、人を強くするのです。
16節、その先に進みましょう。<イエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに・・・この人を強くしました。>イエスの名が、強くしたのですが、その名を信じる信仰のゆえに、です。私たちも、このような信仰を持ちたいと、願います。どうしたら良いでしょうか?続きをご覧ください。<イエスによって与えられる信仰が>とあります。イエスによって、です。信仰は、私たちの敬虔な行いによって、与えられるのではありません。イエスによって、です。信仰は、イエス様が与えてくださいます。その信仰が、この人を、このとおり完全なからだにしたのです。
私たちにも、イエスの名が与えられています。その名を信じる信仰も、与えられています。イエスの名によって、信じて、祈りましょう。イエス様は、言われました。<まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。>(ヨハネ14:13-14)私たちが、求めても得られないのは、なぜでしょう?疑うからです。信じて、求めないからです。(ヤコブ1:6)または、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。(4:3)或いは、悔い改めていないからです。イザヤ書に、このようなみことばがあります。<見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。>(1:15)
ペテロは、13節から15節で、人々が犯した罪を、知らせています。13節、14節、15節<いのちの君を殺したのです。>「いのちの君」、欄外には、別訳として「いのちの導き手」とあります。「いのちの源」とも訳すことができます。このようにして、イスラエルは皆で、いのちの君を殺したのです。私たちは、ユダヤ人ではありません。ユダヤ人ではない、異邦人たちです。そのような私たちも、ただ神様の恵みによって、“神の民”とされました。神の民という意味で、私たちも「イスラエルの全家」の一人とされているのです。ですから、13節から15節で知らされている罪は、私たちの罪でもあります。私たちは、いのちの君を殺したのです。アブラハム、イサク、ヤコブの神が、栄光をお与えになったイエス様を、引き渡し、ユダヤの総督だったポンティオ・ピラトが、釈放すると決めたのに、その面前で拒みました。私たち「イスラエルの全家」は、この聖なる方を拒んで、人殺しの男、バラバを赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです。この咎が、私たちと、私たちの神様との仕切りとなっていないでしょうか?罪とは何でしょう?・キリストを信じないことです。・キリストの律法に従わないことです。・いのちの君、イエス・キリストを殺したことです。