イザヤ書7章1節~25節
「インマヌエルの四説教(1)」

 教会歴では、来週から待降節(アドベント)に入ります。待降節、そしてクリスマスです。クリスマスでは、人として来られたイエス・キリストを記念します。そのようなクリスマスを待ちながら、「御父が、御子を遣わされたことが、どんなに素晴らしい愛であるのか」を、考えながら過ごすのが、待降節(アドベント)です。
 イエス・キリストのお誕生は、預言の成就でした。(みことばが、実現したものでした。)その預言の中から、「インマヌエルの四説教」と呼ばれる、イザヤ書の7章から12章を、共に学びたいと思います。インマヌエルというのは、「神が私たちと共におられる」という意味で、のちに、お生まれになったイエス様が、そのように呼ばれるようになりました。
 では、7章を見てみましょう。1節には、いつのことであったのかが示されています。当時、アッシリアという国が、その支配を広げていました。そのアッシリアの脅威(おびやかし)によって、二つの国、アラムとイスラエルは、“防衛同盟”の関係へと入ります。二つの国は、さらにユダにも、その同盟に入るようにと、強います。しかし、ユダは、入りません。そこで、どうしたか?二つの国は、軍事力によって、強引に入れようとしたのです(ユダに侵攻しました)。そのことが、1節に記されていることです。1節の終わりの所だけを読みます。<・・・戦いのためにエルサレムに上って来たが、これを攻めきれなかった時のことである。>
 このような状況を理解しながら、次の2節です。<ダビデの家に>とあります。ダビデの家というのは、“ユダの王アハズの家”ことです。ここで、“ダビデの家”とは、何であるのかを、整理しておきましょう。ダビデというのは、イスラエルの王でした。しかし、そのイスラエルは、ダビデの子であるソロモンまでは一つでしたが、ソロモンの次には、北王国と、南王国に、分かれてしまいます。それが、イスラエルと、ユダです。分裂後、ダビデの子(子孫)は、どちらの王となって行きますか?ユダの王となって行きます。ですから、今日の箇所に出て来るアハズも、ダビデの子です。
 では、なぜ、ダビデの子が、それほど重要なのでしょう?それは、主が、ダビデに言われた、このような契約があったからです。第二サムエル記の7章を開いてみましょう。7章の11節後半から、17節までを読みます。主は、このようにダビデに約束してくださいました。(「ダビデ契約」と呼ばれます。)この契約によって、イスラエルは、ダビデの身から出る“とこしえの王”を期待したのです。(ダビデの子であって、なおかつ神の子である“とこしえの王”、メシアが、現れてくださることを、待ち望んだのです。)
 では、2節にもどります。そのようなダビデの家に、<「アラムとエフライムと組んだ」という知らせがもたらされた。>とあります。エフライムというのは、イスラエルのことです。アラムと、エフライム(イスラエル)が、再び組んだのです。この知らせは、また侵攻が行われる、という知らせです。エルサレムを攻めきれなかった、アラムとエフライムは、再びダビデの家に攻め入ろうとしていました。
 そのような知らせがもたらされて、ダビデの家は、どうしたでしょう?2節の後半<王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ>とあります。神である主に、信頼していたならば、揺らぐことはなかったはずです。しかし、ダビデの子である王の心も、その民の心も、これほどまでに、揺らいだのです。
 そのとき、3節です。主は、「イザヤと、イザヤの子は、アハズに会え」と言われました。そのイザヤの子の名前ですが、何という名前でしたか?「シェアル・ヤシュブ」という名前でした。その名前の意味は、「残りの者が帰って来る」という意味です。それには、二つの面があります。一つは、「信じない者は、滅ぼされ、残った者だけが、帰って来る」ということです。もう一つは、「信じる者は、救われ、主によって残された者は、帰って来る」ということです。主は、そのような名前の子を、アハズに会わせました。会わせることで、その名前によって、主は、アハズに告げようとされたのです。つまり、「信じない者は滅ぼされ、信じる者は救われる。」ということです。
 名前によってだけではありません。さらに、みことばによっても、です。9節の後半です。 <あなたがたは、信じなければ 堅く立つことはできない。>では、その時、アハズは、何をしていたのでしょう?アハズは、“上の池の水道”にいました。敵に包囲された時に備えて、水を確保しようとしていたのです。当時、水路は地表にあったので、敵に狙われやすかったのだそうです。アハズは、神である主よりも、“上の池の水道”に頼っていました。
 そのようなアハズに、主は言われます。:4(読む)まず、主は、言われました。「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。」言い換えると、「何もしないでいるために気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。」実は、このとき、アハズには、ある大きな計画がありました。それは、アッシリアに、救いを求めるというものだったのです。(Ⅱ列王16:7-9)
 あらためて、整理をします。当時、アッシリアの脅威がありました。それに対抗するために、アラムとイスラエルは、防衛同盟を組んだのです。そして、さらに、ユダを加えようとしました。しかし、ユダは加わろうとしなかった、そこで、ユダに攻め入って、強引に加えようとしたのです。初めの侵攻は、失敗に終わりました。しかし、アラムとイスラエルは、それであきらめることなく、再び攻め入ろうとしていたのです。そのような状況の中で、ユダの王アハズは、何を考えていたのか?なんと、脅威であるアッシリア自体と、手を組もうとしていたのです。アハズは、恐れ、心を弱らせる中で、賢い政治家として、考え、決断し、行動しようとしていました。
 そのようなアハズに、主は、言われたのです。「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。」「何もしないでいるために気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。」さらに、主は、恐れてはならない理由を告げられました。4節の続きを読みます。<あなたは、これら二つの煙(けむ)る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。>燃えさし、というのは、燃え残り(燃えカス)のことです。これらは、ユダに再び攻め入ろうとしている、二つの国の王を指しています。その二人の王は、燃え残りに過ぎないと、主は言われたのです。つまり、侵略されることはない、ということです。
 この時、アハズは、二人の王の“燃える怒り”に、心を弱らせていました。燃える怒りによる“侵略”を恐れていたのです。しかし、主は、まず、このようなたとえで、続いて7節では、このように、はっきりと告げられました。7節<神である主はこう言われる。それは起こらない。それはあり得ない。>5節、6節からは、アラムとエフライム(イスラエル)が、どのような悪事を企てていたのかが分かります。6節によると、傀儡政権の樹立です。アラムとエフライムは、ユダの王アハズに代えて、自分たちに都合の良い“タベアルの子”を王とすることで、ユダをあやつろうとしていたのです。
 しかし、神である主は、こう言われました。7節<神である主はこう言われる。それは起こらない。それはあり得ない。>レツィンは、レツィンだから、レマルヤの子は、レマルヤの子だから、ということです。8節と9節の前半です。まとめるとこのようになります。アラム、その首都はダマスコ、その王はレツィンだから。エフライムも、その首都はサマリア、その王はレマルヤの子だから。一方、ユダは、どうなのでしょう?その首都はエルサレムです。エルサレムは、主が住むと決められた所でした。その王はアハズです。アハズは、「ダビデの家」の王です。ダビデの子です。だから、“あり得ない、起こらない”のです。
 さらに、もう一つのことを、主は言われました。8節の後半です。<-エフライムは六十五年のうちに、打ちのめされて、一つの民でなくなる->このようなことまで、あらかじめ告げてくださったのです。私たちは、この預言の通りに、このあと、エフライムが、紀元前671年に、一つの民ではなくなったことを知っています。
 9節後半です。<あなたがたは、信じなければ 堅く立つことはできない。』」アハズは、どちらかを、選ばなければなりませんでした。アラムとエフライムの連合軍が、ユダに攻め入ろうとしている状況のなかで、・主のみことばを信じるのか?(信じないのか?)・主に信頼して、救われるのか?或いは、主には信頼せず、自らの外交政策によって、アッシリアに救いを求めるのか?・信頼か?(破滅か?)
 どちらかを、選択しなければならなかったのです。とても厳しい選択です。ですから、主は、さらにアハズに告げられたのです。:10、11(読む)主は、ここまで、告げてくださいました。主に、しるしを求めることは、本来であれば罪です。しるしというのは、「みことばだけでは信頼できないので、それに加えて、信じることができるように」と、求めるものだからです。私たちは、みことばだけで、信頼すべきです。しかしこの時、主は、アハズに「しるしを求めよ」と勧めてくださいました。それも<よみの深みにでも、天の高みにでも>とです。つまり、主は、アハズが、みことばを信頼することができるなら、どのようなしるしであっても、与えようとされた、ということです。主はこれほどまでに、アハズを信仰的な立場に立たせようとされたのです。
 それに対して、アハズは、どうしたでしょう?:12(読む)アハズは、答えました。「私は、しるしを求めません。主のみことばが、信頼できるかどうかを、試してみることもしません。」では、アハズは、主に信頼したのでしょうか?主の「それは起こらない。それはあり得ない。」とのみことばを信じて、恐れることなく、気を確かに持ち、主を信頼して、何もしないでいたのでしょうか?いいえ。表面的に、敬虔そうに答えただけで、アハズは、主に信頼することを拒絶したのです。Ⅱ列王記(16:7-9)には、アハズが、アッシリアに救いを求めたことが、記されています。
 イザヤは、言いました。:13(読む)ここで、イザヤは、「ダビデの家よ」と、呼びかけています。ダビデの家は、人々を失望させ、イザヤの神まで、失望させてしまいました。それゆえ、主は自ら、一つのしるしを与えられたのです。ダビデの家が、主に信頼しようと、求めたからではありません。ダビデの家が、求めなかったので、主が自ら、一つのしるしを与えてくださったのです。:14、15(読む)このしるしこそ、メシヤのしるしです。15節の<凝乳と蜂蜜を食べる>というのは、“この子は、貧しさを経験しながら成長する”ということです。荒れ果てた地に、取り残された人々が食べたのが、凝乳と蜂蜜でした。
 このように、インマヌエル(メシア)のしるしは、みことばを信じることなく、主に信頼することを拒絶し、しるしを求めず、人々だけではなく、神様まで失望させた“ダビデの家”に、それゆえ、です。それゆえ、主が自ら、与えられたものだったのです。:16(読む)二人の王というのは、アラムの王と、エフライムの王のことです。この預言の通りに、アラムは三年後に、エフライムは十三年後に、アッシリアに滅ぼされます。:17(読む)これは、ユダに対する預言です。アハズは、アッシリアに救いを求め、救われます。しかし、救われたことで、アハズ以後のユダの王たちは、アッシリアの王に、従わざるを得なくなりました。
 最後に、18節から25節です。アハズは、主に信頼して歩むことを、はっきりと拒絶しました。
 そのようなアハズが、これから、どのような道を進むのかが、預言されています。幾つか説明をして、終わります。18節<その日になると、主は・・・>と記されています。エジプトも、アッシリアも、どのような国であっても、主がみこころのままに、従わせておられる、ということです。また、20節も<その日、主は>と、そのような出来事が、主のさばきであることを示しています。最後の行に、<頭と足の毛を剃り、ひげまでも剃り落とす>とあります。これは、敵の手から、逃れられるところはない、見えるところも、見えないところも侮辱を受ける、ということでしょう。
 21節、22節は、これほど貧しい生活をするようになる、ということです。22節、1行目の<これらが乳を多く出すので>とありますが、多く出したところで、生きているのは(前の行を見ると)雌の子牛一頭と羊二匹だけです。23節から25節は、これほど、全土が荒れ果てるということです。高価であった土地も、全く価値がなくなり、農業ができるような土地も見つからなくなる、ということです。
 どこに、希望があるのでしょう?主に信頼することを拒否したダビデの家に、希望はあるのでしょうか?14節を読みます。:14(読む)ダビデの家には、ただ、この預言の成就にだけに、希望がありました。自ら、しるしを与えてくださった主は、この預言の成就も、御父が自ら、御子を遣わされることで、成し遂げてくださったのです。